障害者医療問題全国ネットワーク

代表 吉田 敏彦

 

 

二〇〇一年十一月十日に雨の中、沖縄・北海道を含む各地から一二〇人を超える障害者と関係者が集まって「障害者医療問題全国ネットワーク(二次障害ネット)」設立記念シンポジウムと総会が開かれました。

そこで代表に任命された私の挨拶の原稿の内容を「けんこう通信」に載せていただくことになりました。シンポジウムに参加されてすでに読まれた方には、どうかお許しください。

私は、JOYプロジェクトの仲間と障害者が使える温泉クアハウスを一つでも増やしていく活動をしています。障害が重くても介助者や家族と気軽に滞在できる温泉クアハウスがあれば、体力増強や健康づくりや二次障害を遅らせたり予防に役立ち、手術のあとのリハビリにも利用できると信じているからです。今後「けんこう通信」紙上で既存の障害者が使える温泉を紹介していきたいと思っております。その手始めの自己紹介程度に受け止めていただければ幸いです。

医療を施す側と障害者の間に横たわる問題として特に深刻な問題は、コミュニケーション障害の問題が医療の現場で省みられないことです。そして障害者の二次障害については、地域の医療機関では理解がなくいいかげんで無責任な対応や処置がまかり通っていることです。現代の複雑な医療の現場で全ての事がわかる医者など不可能なことを自覚して、専門医や医療機関を養成して紹介する仕組みを作っていくことが必要だと思います。

障害者の二次障害として代表的なものを挙げると脳性マヒの頚椎症、頚椎損傷、脊髄損傷の尿路障害、ポリオのポストポリオの問題などがあります。

私は、脳性マヒだからそのことについて少し話してみます。身体の筋肉の激しい緊張や力のバランスの崩れが継続的に起こることによって骨格をゆがめて、そのことによって頚椎や脊髄の障害や股関節、膝関節などの関節障害を引き起こすことを「脳性マヒの二次障害」と一般的に言われるようです。私はこのような二次障害をできるだけ遅らせ防ぐためにどのようなことが必要か、突き止めることが重要だと考えます。今までの障害者に対する教育やリハビリテーション医学は、障害を医療や当人の努力によって克服して、少しでも健全者に近い状態にしなければならないという強迫観念を障害者にうえつけてきたきらいがありました。今は、そのことの反省の上にリラクゼーションの重要性や社会環境、生活環境のバリアーを少なくすることや労働条件、労働環境の改善の必要性が強く訴えられています。

ここで私が二次障害になった経過をのべてみたいと思います。私は、二五才位まで人生の目標達成に近づくための手段として、松葉杖で歩くことが欠かすことができないことと考えて全精力をそのことに向けていました。

その頃は自分で歩くことができなければ、高等教育が受けられないので人生の道の選択が限られてしまうと思っていました。しかし、汗みどろの努力にも関わらず、そのことはとうとう叶えられなかったので、一時、自暴自棄に陥りました。

その頃から障害者運動の仲間達と繋がりができてしまい、泥沼に足を取られていまだに足を洗えずに困っています(笑)。その道でそれなりに奮闘努力をしつづけた結果、東京『青い芝の会』の事務所を確保して脳性マヒ者共同作業所を設立して、所長にさせられました。

根がまじめな私は、地域に根ざした小規模作業所を脳性マヒ者自身の手で作り運営していくことに全力で取り組みました。初対面の人とコミュニケーションをとっていくことが、仕事のほとんどを占めました。言語障害の強い私の言葉を相手にわかって頂くために、ただでさえ緊張の強い身体を捻じ曲げて、首を傾けて力を入れつづけて二時間でも三時間でも訴えつづけ、相手は私の熱意に応えなければならない観念にとらわれて、耳を傾けてくれる人が多いのでした。私はこのことが、二次障害頚椎症になってしまった大きな要因であると感覚的に感じています。

三五才過ぎる頃から二次障害頚椎症による手足の痺れ、首、肩の痛みに悩まされてきました。私が二次障害を発症して、近くの整形外科で痛み止めと筋肉弛緩剤を二週間飲みつづけたところ、それまで車椅子を使って身辺自立がだいたいできていた身体が、全身の筋肉が衰え車椅子に縛り付けないと座っていられなくなり、全面介助の状態になりました。困り果て温泉ホテルで二週間、毎日入浴させてもらったところ、首や肩や顔におできが噴出して、でては消え、でるたびに痺れが少しずつ和らいできました。

そこで三六才の時、石和温泉病院の個室に入院しました。ハーバードタンク入浴を週二回、頚椎牽引とマイクロ照射、起立訓練をやりました。その他に妻の介護で個室にある狭い温泉フロに入れてもらいました。やはり周期的に吹き出物がでるたびに痺れや運動機能が回復し、九ヵ月で六割程度まで回復したので退院しました。手動の車椅子での室内移動、つかまり立ち、食事、歯磨き、整髪等が自力で可能になりました。

その後はずっと回復基調で、時たま温泉に骨休みに一週間くらい行くペースで、どろんこ作業所の所長を務めて来ました。四九才頃から再び頚椎症が悪化し始めたので、手術をA病院で受けたところ、寝たきり状態になり、寝返りも不可能になりました。

手術は肩と首の筋肉をゆるめるために、筋肉につながる神経を焼ききる手術、頚椎の三・四番と五・六番を固定する手術でした。退院後また、石和温泉病院に入院しました。風呂は週二回になってしまいましたが、私の場合、特に緊張緩和に効果が著しいので、泡風呂を週二回もくわえて、週四回入れてくれました。六ヶ月でつかまり立ちがかろうじてできるようになったので退院しました。

その時の状態は、左手は肘関節と手首のあいだ下半分から痺れ右手は第一指から第三指まで、左手は肩まで右手は頭まで上げられ、両腕とも心臓より下におくとむくみ、特に左手はむくみが取れにくい状態でした。左足は前側全部に痺れを感じ、右足に比べて冷たい事が多く、小便は我慢できず昼間は四〇〜五〇分おき、夜は二〜三時間おき、空腹のとき水分をとると十五分おきに一回一〇〇CCくらい出る状態です。大便は毎日下剤を飲まないと出ない状態でした。その状態が二〇〇〇年九月までだいたい同じでした。

二〇〇〇年九月右足大腿四頭筋あたりが痺れ、両足が時々突っ張って曲がりにくくなりました。右手の痺れも手首まで広がったり、三本指までの痺れをのこして回復したりを繰り返して、握力もよわくなりました。左側の腰と尻も痺れています。これはお天気によって変わりました。体幹のふらつきがひどくなり、呼吸も不安感がでてきたので、脳性マヒの二次障害に対する手術で全国的に有名な横浜南共済病院で、二〇〇一年の五月に診てもらったところ「五年前に手術した骨が完全にはついていない」ということで、八月三日手術を受けました。

横浜南共済病院の整形外科は常に一割くらい脳性マヒとおぼしき患者六〜七人が入院しています。一ヵ月から三ヶ月で退院して次々に頚椎症の治療のために脳性マヒ者がくるのです。普通の病院では考えられないくらい脳性マヒ者の入院患者の多いことに驚きました。そして看護婦はじめ、全ての医療スタッフが私のわかりにくい言語障害を聞き取って、更に詳しく聞き出そうとする姿勢が伝わり、よその病院で感じられなかった、私一人でも安心して医療をうけられる状態があることに深く感動しました。入院二週間あまりで手術になり、事前に手術やICUの担当の看護婦が説明に来て、ICUの見学もさせてくれるなど患者の立場にたった医療実践がなされています。

手術は頚椎の三〜七番を固定するため、前側に自分の腰からとった骨を入れ、後ろ側にチタンの添え棒をビスで固定して、横からも補助的にビスで留める手術で、九時間半かかりました。三日間のICUでの手厚い看護の後、病棟でも何も不安もなく、一週間で車椅子に乗れて手術後一〇日間くらいでリハビリを始めました。リハビリは入院まもなく、体力維持と担当の療法士とのコミュニケーションや術前の身体の状態を把握しておくために始められていました。手術前のリハビリは他の病院ではあまりみられないことだと思います。入院して丁度三ヵ月で退院しました。

結果は腰とお尻の痺れが取れ、体幹のフラつきが少なくなり呼吸の不安感が無くなり、左手が手首の少し上まで、右手が手首の少し下までに痺れが減少しています。体全体の力が回復しつつあるようです。

「手術後一年位で痺れが取れてくる人もある。とにかく日常生活で身体を使う事とリハビリを継続する事が大切だ」と退院時に言われました。

ここでちょっと私が五年前に経験した都内A病院のやり方と横浜南共済病院の今回の経験を比べてみたいと思います。A病院は入院から四〇日間、週に一回くらい検査をして、その他は食事を食べるほかは何もせず次の検査の予定も知らされません。病室の狭い空間で体力も精神的にも落ちていく状態でした。横浜南共済病院では入院まもなくリハビリを始め、病室での宿題も出され自ら病気を治す気分にさせられました。手術後ICUではA病院では言葉が通じずいきなり知らない世界に目覚めてしまった気分で、嫌がうえにも緊張が高まって家族を呼んで言葉を通訳してもらわなければなりませんでした。横浜南共済病院では事前にICUの看護婦が私と相談をして言葉が通じなかった時のサインやカードまで用意してくれました。

手術後の頭の固定は下も横もA病院は砂袋を重ねてするので、すぐに耳や頭の後が痛くなります。その状態で一ヶ月以上寝かされていたので体力も筋力も衰え、砂袋とコルセットの悪影響で緊張が強くなっていました。横浜南共済病院ではあまりへこまない薄いスポンジをその人に合わせて重ねて使っていました。術後の首のコルセットは健常者には、両病院ともだいたい同じ様なコルセットを使っていました。横浜南共済病院は脳性マヒ者には大成先生が新しく考案した、硬質スポンジで作ったコルセットで首の周りを制限をするだけで脳性マヒが余計な緊張をするよりも、楽な状態にしておくことに重点をおいていました。その代わり、手術の時に首の中で骨をチタンの支柱とビスでしっかりと固定してしまうようです。術後一〇日目位から「あまり気を使わないで動いても大丈夫、中でしっかり止めてあるので後はリハビリで筋力をつけるように」と言われました。脳性マヒの緊張の出方を熟知したやりかただと思いました。

病院での脳性マヒ者と健常者の固定のやり方が違うところを考えると、体内に支柱とビスを入れるリスクと脳性マヒ特有の緊張がたかまって招くリスクを天秤にかけてとられたやり方だと思われます。同じ様な手術を違う病院でやり直す経験で、病院と医師を選ぶことの大切さを身をもって痛感して、皆さんに訴えたいと思います。リハビリの継続が重要だということを考える、とこんな時障害者が使える「温泉クワハウス」があればリハビリも出来、体力回復にも役立つと思います。たとえ手術をしなくても温泉クワハウスで障害者がリラックスしてスポーツや健康増進に取り組むことは、健常者のそれにも増してずっと必要なことだと思います。

 

一.地域医療機関で障害者が安心して診療を受けられる受け入れ体制を作っていこう。

二.障害者特有の二次障害に取り組む医療機関を全国、各地方毎に指定して地域医療では出来ない専門的な体制をつくり、いつでも紹介して貰えるようにしていこう。

三.障害者が使える温泉クワハウスを増やして術後のリハビリやその他の健康増進やスポーツ、レクリエーションが利用できるようにしていこう。