ブ-タレ放題 -2006/10/17-更新
今年も例年同様事件.事故の多い年でした。北朝鮮問題。台風による風雨の被害.飲酒運転による
悲惨な事故等二ュ-ス満載です。
わらず楽にはなりません。燃料高騰.魚価の低迷.不漁.地球温暖化のせいか自然界の海も少しづ
つ変化しているようです。将来どうなる事やら?
釣り談義は
今回は深場の釣りを題材にしました。今期も愈々11月1日より解禁になりますが.良い釣果を期待
したいものです。私がアコウ.紅アコウを始めたのは昭和50年頃でした。始めた頃は現在のような
電動釣り機は無く手たぐりでした。
ハンドルを手動で廻し巻き込みました。ドラムも木材を利用した自製品です。糸巻き量が多くなると
締め付け破壊したりしました。私はその経験はありませんが.テトロン.ナイロン製品の無い頃は
麻糸を柿渋に漬け込み干し上げたものを幹糸とした時代も
ては干すこれの繰り返しが続くわけです。
寄れません.1回で嫌われます。ですから他の漁のある時はアコウ漁はあまりやらなかったようです。
私は主にイカドラムの時代から始めましたが.暫くして電動釣り機に変わり最初の頃は魚も豊富にいた
ようです。魚短も大したものではなかったのですが.深度と変化のある棚を見ては投入してみました。
反応に出た群もありました。旨く魚群に当ると大型のアコウが提灯行列でした。1回で3〜4kg級
が仕掛け30本針で28尾というアタリもありました。20尾位のアタリは良い群に遭遇して潮流
等条件の良い時はよくありました。アコウ。紅アコウ漁は群をみつけポイントを確保する事なのですが.
最近は漁場も荒れて魚も減少してきています。探し当てる事は至難の業です。でも広い海です何処
かにいるんですね-
ました。5本針で3〜5尾(20〜80kg)が喰うのです.重みで50m位は走ります。テトロン
30号で手元からブチ切れた事もありました.それから40号に変えました。甲板一杯で歩きばも
無くなる事もありました。
のある海底であれば何処でも釣れました。7〜10尾位は常時釣れました。最高1回でW巻き電動で
9と12尾計21尾上がった時もありました。私にとってこの年の水揚高は過去最高でした。
昭和56年〜平成2年頃迄は底物の水揚高は良かったですね。1日に200〜300kgという釣り
もマレではありません。もちろん深場の釣りです条件次第でしたが。とにかく魚が豊富でしたのでしょう.
電動釣り機が開発される以前は何百.何千年の昔から1千mの深海に釣り糸を投入した人はいなかった
のではないのでしょうか。
其れと言うのも燃料の高騰等.まして遊漁業では無駄な時間をツイヤ出来ないことです。
1日に何投も出来ない釣りなので。
釣りは時の運です.今期も良い釣果を祈念して頑張りましょう
ブ-タレ放題 イトゴ -2005/03/18 更新-
暇ができたので暫く振りに書いてみました。
世の中色々事件や災害が多いですネ-
!
自然災害も地球規模ですからネ-.中越地震.スマトラ沖地震に伴うインド洋沿岸の津波.カリフォルニア州.
ヨ-ロッパの豪雨と強風.地球が何か変わりつつあるのでは? ブロッキング現象とやらで。海の方も異状気象と
異状海流のせいか漁も最近は段々無くなるような気がします。ですから漁のあった昔が懐かしく思えるのです。
10年一昔と言いますが20年30年前でしたら魚も豊富で大漁の日々が続くこともありました。
今頃の季節
(12〜3月頃 )
カジキ.メジ.ブリが沿岸近く迄入り込んで面白いようでした。餌となるイワシ.サンマ.
サバ等がきても其れを喰おうとする魚が来ないのです。取りすぎたのかナ-
?
釣り談義は
メジマグロのイトゴ釣り (イトゴ) =
イワシの群が外敵に追われ水面に浮上して固まる事。ツボ鳥と言って
そのイワシ群を見つけると先ずタモ網でイワシをすくいイケスに活かします.残りのイワシ群は船底にへばりつくのです。
船底を覗くとメジが底の方で指を組んだように静かに泳いでいます。周辺ではしぶきを上げて跳ねまわります。
2m位の腰の強い竿で活きイワシを餌として付け水面におろすと同時に底から飛びつくようにして喰ってきます。
餌が水面につかないうちに飛び上がり喰うこともあります。3〜4kg物です.身体を横向きに足を踏ん張り腕は
ピンと伸ばし引き込まれないようにして脇腹に抱え込むようにして取り込みます。メジが活性して喰いの良いとき
などは足元に転がっている死に餌でも喰ってきます。僅か1〜2時間位で百単位のメジを釣り上げるのです。
ハ-ドな釣りですが面白いものです。30年以前の体験談ですが.今では夢のような思い出です。
最近の話ですが.特大カツオとビン長マグロの引き縄釣り.此れもハ-ドでした.体力勝負です魚体7〜10kgオ-バ-物
でした。鳥群や素引きあたりで引き寄せているうちに後から後から着いてくるので連続「タグリッパナシ」ってところでした。
年ですネ-体力も弱くなり大物釣りも大儀に思えるようになりました。とにかく魚をとることは面白いンですがネ-
!
此れから本格的カツオシ-ズンになります。ガンバラナクチャ- ! !
ブ-タレ放題 旅周り - 2004/08/30 更新 -
スポ-ツの祭典感動のアテネオリンピックも日本選手団大成果で終わりました。
選手の皆さん各関係者の方々ご苦労さまでした。
小さな日本でも今や世界規模で上位のレベルです.誇りに思います!!
日本の女子は段々強くなりましたネ。
[ 要注意警告情報 ]
最近.釣果速報を大ボラ吹きに出している某船宿があります。
釣り客-金の欲しさのあまり擬似広告. ( サイズ-匹数 ) 等.何倍にも膨れているようです。
その他色々ありますが ? 「釣れますョ.釣れてます」に要注意「釣れてます.釣行してみりゃ.昨日まで」
なんて川柳もあります。他船の事はとやかく言いたくありませんが.私にある正義感がこのような
悪徳商法を許せないのです。
今回の釣り談義は !
○ 銭州の青鯛釣り 漁期-8月〜9月頃
和田港を午前中に出港 ( 燃料.氷.餌.水.食料 ) 等の仕込みを済ませ.天候次第で神津島へ直行
( 行程-6時間位 ) 仮泊。早朝.神津発銭州へ漁深反応を見つけて投縄 ( 胴付15〜20本針 )
5〜13匹位の釣れ具合で良いほうでした。2名で1日の水揚100〜150kg凪の時は日沈
まで操業し下田港へ水揚の為.夜走り ( 3時間位 ) 入港し温泉に入り.一杯飲んで就寝。
朝市に水揚.仕込みを済ませ天候.時間を見計らい.神津へ.神津仮泊-朝出船の繰り返しでした。
つまり2日に1回の操業です一航海-1〜2週間位のぺ-スでした。当時70馬力 ( 現在-280馬力 )
その頃の青鯛の価値=2000円〜3000円-kg当り
○ 伊豆諸島の突ん棒 漁期7月〜10月初旬
大島.利島.三宅島.神津島.御子元島周辺を漁場とする.真舵木.白黒皮舵木.等の大物を銛を投げて
突く漁法です。目.腰.感.の良さを特に必要とする法なので漁師であれば誰でもこなせるもので
はありません。腕の良い船頭とそうでない船頭との差は相当なものがあります。
銛を投げる熟練の技です。他のスポ-ツと同様な事が言えます。
先ず魚のいそうな漁場の見極めること ( 潮目=潮境 ) 餌もあるし.うねりもあるので.魚体を浮上
させ.尾ビレを出すため見つけ易いのです。尾ビレを見つけたら魚に感ずかれないように背後か
ら適当な速度で射程距離まで近づき銛を打つのですが.ここが一番の難しいところです。
水面下にいるさかなの深さ.光の屈折で何処から銛を打ち込むかが問題なのです。考えている時
間などありません。瞬間のタイミング.ここに経験と感が必要なのです。命中した銛は瞬時猛ス
ピ-ドで縄を引いていきます。足元などに充分気を付けて.高圧電流を流して仕留める仕掛けもあ
りますが.魚の鮮度に問題がでます。電気を使用しない場合は取り込みに時間が掛かります。
( 30分〜3時間 ) 大物などは5〜6時間掛かることもあります。命中箇所によりさまざまです。
大物を肉眼で見つけ.追いかけ.手銛で突く.醍醐味と面白さは釣りとは違うものです。
現在では引き縄釣り(トロ―リング)が盛んに行われる漁法に変わりました。人手不足のせいもあり
網や延縄等で攻められ魚も減少し.賢くなってきました。マカジキのトロ―リングが又面白いのです.
漁師が他の漁を捨ててもハマリます。男のロマンだと! 回遊魚です.昨年は駄目でした。
大物釣りは経験した人でないと醍醐味は解らないと思います。詳細等又次回書くことにします。
メジマグロ.マカジキ等得意とする釣り物なのですが.最近はサッパリ来なくなってきました。
過去の良い漁を思い出しては又という日を期待しています。仕掛け等は何時でも使用できるよう
用意してあるのですが.夢よもう一度 !
青鯛.突きん棒は昭和40年代後半頃の話です。
ブ-タレ放題 夜釣り 2004/05/11
暫くぶりに書いてみました。
マァ世の中.色々.国内.海外.ニュ―ス事件も有るものですネ- !
新聞.テレビ.等で皆さんご承知の事と思いますから.世相世論は私漁師ふぜいの語るところでもありません。
腹立たしく許せない事が一ツ有ります.幼児虐待事件です。それも我が子に対してです.タバコの火を押し付けたり.
殴る.蹴る.食事を与えなかったり.こんな事が出来ると言う事は人間ではない( 人でなし )です。鳥や動物でさえ自
分は食べなくても我が子に餌を運びます。どう言う神経か真ともな人間には考えられない事です。そんな奴には
子供を創る資格などありません。勿論人間としての資格も有りません。 "地球上から消えて無くなれ"馬鹿野郎
"
釣りの話でも語りましょうか !
漁師生活40数年過去を振り返ると色々な事が有りました。15歳で後継ぎの漁師になり(
4代目 )1年間船酔いに
苦しみ.なんとか船上で仕事が出来るようになりました。船酔いさえなければ漁師は面白い職業です。これで金に
さえなれば "海の上です.板子一枚.下は地獄です.怖くて膝がガタついた事もありました。アジ.サバの夜釣りで
濃霧の中での操業.怖いですョ-"視界10m周は全く見えず2トン.12馬力の木造船です.此れといった設備もあり
ません。現代のようにGPS.レ-ダ-等何も無く.自船の位置さえ解りません。漁場は大体本船航路周辺集魚灯は
点けてはいるものの真暗闇の中から本船が接近して来る時は恐怖の感です.只汽笛だけがボ-ボ-聞こえるだけ
です.相手船はレ-ダ-は見ていても近接すると小型船等は死角に入り解らないようです。
アジ.サバの夜間一本釣り6月1日から出漁.サンマ船団の出漁迄( 8月の盆頃
)が漁期です。
乗り組み員( 若い衆 )の関係で-集魚灯( 1〜2kw)を点けイワシミンチを撒くと水面に背を出すように泳ぎ周り.
サバの群れは青く.アジの群れは濃茶色に水面が染まります。1m位の竿で幹を水面にたたきつけるようにして
片手釣り.1尾ずつ釣り上げてはハズシと言う道具ではずします。(この間-秒単位)早業です。5〜6人乗りで片舷
釣り大サバ.やゴマサバの大群に出会えば夜半に万船です。全ての魚層に水氷にして詰め込み(.1トン位 )で万船
です.海が静かな時は甲板にまで積み込んできました.沈まない程度に。.-欲です-普通は日没から夜明けまでが
操業時間です。帰港になると晴れて視界の良い時ばかりありません.視界の悪い時などとんでもない所へ行き着く
事もありました。なんせ感だけですから。早朝に帰港した時は良いけど帰港に時間が掛かったときなどは大変で
した.真夏です日が高くなると暑くなります.魚の鮮度も心配になります眠くもなります舵は交代しながら取り.港へ
着けば水揚げす.これが又大変な作業でした。腹ペコで家に上がり風呂.食事を済ませ就寝.昼間寝て夜働き.顔色
も白くなります.凪続きであれば毎日がこれの繰り返し.若く遊びざかりです.時化になると大喜びです。
ラ-メン-50円.映画-30〜80円の時代でした。
当時の和田港所属船
大型船-30トン未満-サバ.サンマ.サケマス漁-26隻 (現在-0)
小型船-通称チャカ(電気着火エンジン)当時はディぜルエンジン- 近海操業-56隻
(現在-21隻 船外機船-56隻)
捕鯨船-2隻
定置網船-1経営-4〜5隻
で港狭しと言う感じでした.漁業者も他地区からの出稼ぎも含め500人以上の若い衆が働いていたわけです。
港も活気に満ちて.商店.飲食店.映画館.等街のほうの景気も良かったようでした。
当時.昭和30年代頃の懐かしい思い出.夜釣りの一こまを書いてみました。
他の釣り物を題材に又次回書いてみようと思います。
END
俺が爺さんの昔話 2003/11/29
オラガ=和田弁
時化続きなので爺さん(祖父明治19年生れ-昭和49年死去)の思い出話でも綴ってみます-
九重村(館山市)の庄屋の次男坊として生まれ5歳で勝山の傳兵エ(屋号) に養子にもらわれてきたそうです。漁師の家庭で.女系家族でしたので男児が欲しかったようです。9歳の時昔の人の言葉で「野郎勉強習うか.それとも沖へ行くか
?」と問われ.沖へ行くと返事したそうです。9歳から漁に連れていかれ.艪を漕ぐことから始め.次第に釣りとか網漁を仕込まれたようです。帰ってくると背に赤ん坊をおんぶしたりして子守をしたそうです。その赤ん坊が後の妻-つまり婆さんです。そう言った生い立ちの人でした。とにかく船方は良かったネ(漁師の腕の良い人)
! 苦労と経験を重ねた結果だと思います。漁の事なら知らないものはなかったネ
! その代わり文字.数学は全然駄目.無教養で生涯を終えました。享年90歳でした。兵隊検査で始めて自分の出生を知ったそうです。爺さんは若い頃は酒好き.遊郭などでの遊び.婆さんを泣かせたそうです。仕事.酒遊び何でもこなすツワモノのようでした。私も漁師としての手ほどきをさんざん受けてきました。良く教えてもらいました。道具.仕掛けの創りかた.魚の習性.漁法.それぞれ魚種によって全て違う事など.昔の人は大したものだと思います。私が現在漁師として生活出来るのも爺さんのおかげだと思います。
爺さんの体験談--
○ 真鯛の夜釣り--活餌として海老.ヤリイカなど使用したようです。現在のテンヤ釣りです。昔の夜釣りのことです.集魚灯は無いし手元にガス灯を照らしての操業.棚が難しいようでした.真鯛も夜間は相当浮上するそうです。釣れた魚は氷は無いし.何が何でも活かして水揚したそうです。死魚はおかず.真鯛のことです空気を抜く技が必要です.活かすも殺すも生活が掛かっています。ですから昔の人は上手でした。
○ 大マグロ.梶木の延縄- 船の大きさ等は未解-乗組員数名- エンジンの無い時代です.帆と艪で勝山港を出港.野島沖へ出てサバなどの餌取り後.空を眺め雲行き.風向きなど.感で天候を判断して沖出ししたそうです。忘れましたが「---の風は親と見て走れ」そう言うコトワザもあります。清澄が水に乗る(清澄山が水平線下に入る)見えなくなってからも暫く走った事もあったそうです。(25〜40マイル)
現代とは違い計器類も何も無かった時代です.あるのはお粗末な磁石程度.天候の見定めに失敗すると大変だね
! 事故や遭難にあった僚船もあったそうです。漁を終えると銚子港に向けて走ったようだ。今は良くなったようだが.昔の利根川河口は知る人ぞ知る.風向きによれば難港です「銚子の河口でテンデンガイ」と言うコトワザもあります。自分の命を守るのに精一杯他人のことなど構っていられない.と言うことです。いざ港に入り水揚を済ませば金は入るし.遊郭はあるしってところでしょう。だいたい想像はつきます。爺さんあの世でクシャミかな
! それから勝山に帰る話です。利根川河口は北東から東風が何日も続くと出入港が不可能になります。長引くと金も食料も不足するので仕方なく利根川を上流へと逆のぼり.川幅の広く深いところは艪を漕ぎ浅く狭いところは2〜3人位で降船して綱を引き他の人は竿をさしての航行.支流へ入り東京湾への下り路。利根川から荒川への水路が当時はあったんですね。その頃の東京周辺の夜はマッ暗だったそうです。地図も海図も持たないで良くもまあ昔の人はそこ迄遣れたかと思うと只感心するだけです。後は静かな東京湾を南下久々の我が勝山港へって感じですね。それにしても何日の日程か解りませんが千葉県一周するんです。 恐れ入りました
! !
まだまだ爺さんの話はいっぱいあります。今回は此れまで.又次回暇を見つけて
!
60爺のブ-タレ放題- なんでだろう ? ? ?
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