・・医療漬けの身体障害者の実像・
志村:その背景には、障害者自身の側にも問題意識が生まれて来なかったということもある?
天野:脳性麻痺も含め、身体障害者は生まれた時からお母さんと医者と看護婦さんと、閉鎖した中で育っちゃう。障害の「早期発見・早期治療」ということで、医療びたりの生活の中で育ってきてしまうから、自分の体についての知識・関心はないし、関心を持つべきだという問題意識もほとんど根づかない、ということが問題としてあるでしょう。つまり、お母さんも専門家任せ、専門家の肩代わりをお母さんが強いられている。当事者の子供は自分の体への関心や興味は持つことのないままにずっと過ごしてきちゃう、という背景があるのではないか。収容施設、養護学校を出た後は、在宅であったり作業所に通うんだけど、卒業した途端に自分の体に対する無関心の中で過ごしていく。そのこと自体に問題意識も全くないままに、多くの身体障害者は日常を過ごしてしまう。したがって、二次障害についてもあまり表に出てこない。日常的に医療を受けるシステムもあまりない。これが多くの身体障害者の実像ではないか。
・・身体障害者の陥りやすい傾向として・
天野:収容施設とか、機能訓練とか、子供の頃からあるよね。それに対する不信や嫌悪感というのではなく、素直な奴がほとんどだと思うんだよ。素直に訓練して素直に親や訓練士のままに過ごす身体障害者の人が多いと思う。病院や施設の医者が付き添って成長するわけ。医者、ケースワーカー、看護婦。生まれた時から大騒ぎして。それが日常風景になってしまう。脳性麻痺も難病の子供もそうだけど、子供の頃からお医者さん浸りなんだよ。そうすると、あらかじめ僕らは病人なんだというようなへんてこな感覚になる。それを出発点として、風邪を引いたとか色々な病気については、自分の中で認識する必要が無くなってしまう。医者に丸ごと体を預けっぱなし、という感じ。どこかで分かってくれていて、お任せで過ごせる。子供の頃から考えていくと、何だか自分の体について自分でとらえ返す機会を奪われているような気がする。全然いい気分ではないんだが、自分の体について気にする必要がない。わけが分からなくても、ずーっと出された薬を飲んでいる。夕食の時にいくつか出てきて、飲むのが習慣付けられている。このような生活をずーっと繰り返してしまうんだよね、障害者って子供の頃から。
小佐野:俺その実感ない。俺、途中で丈夫になっちゃった(笑)。天野さんの言ったこともそうだし、設備と対応の問題で俺は素朴に面倒くさかったり、丈夫になっちゃったし。施設のなかで医者にすがって生きねばならない障害者達の、体を預ける感覚は俺にはわからない。あり得ることだとは思うけど。
天野:多くの人はあなたと似た成長過程を経てると思うんだけどな。僕なんかの実感は、身体はお預け。預けたという意識もないんだよ。ほとんど医者、看護婦との一体化だよね、病院育ちの中で。
小佐野:例えば、S園やK園でずっと育ってきた障害者の人達はそうだと思うんだ。俺は小学校から自宅になってしまった。その後施設には行かなかったんだ。
天野:だからそういう風に医者と距離を置けたのではないだろうか、と君自身は思うわけだ。小佐野さんの場合は、親の価値観が影響しているのかな。つまり、脳性麻痺者の価値観というのは、親の価値観と一体化している。親は足を治そうとする、動けるようにしようとする。その要望の下に、病院育ち、収容施設育ちとなる。で、結果として体治すのは医者、そういう生育歴が結構長く続いちゃう。そうした中で、卒業して収容施設や養護学校を放り出されて在宅になると、そのメンバーが抜けちゃう。あえてこちらから行くようなエネルギーも湧いてこない。行けばいいけど、行く術も知らない可能性もある。
市瀬:それに昔は、S園などに母子入園すると親もある程度看護教育を受ける。
小佐野:たいていそこでS園か何かに行くんだよね、権威だから。
天野:で、また緊張止めくらい飲まされて(笑)。そういうことなんだよ、実態は多分。違和感というよりは、薬飲んだだけで帰っていく。問題意識がないから、それ以前なんだ。
天野:たぶん在宅の多くの障害者は、S園に行って緊張緩和剤飲まされて自宅でじっと黙っている。そういうものなのかな、っていう素直さがあると思う。
・・障害者側の意識の問題・
志村:例えば寝たきりになったとか、あるいは遠藤さんのところで天野さんが言っている「命への不安」みたいな形で亡くなっていく、何年も前から二次障害のようなものがありながらあまり深刻さはない。つまり医療の側よりもむしろこちら側、脳性麻痺者の側にもそういう意味での危機感や認識が、ない。例えば健康診断を、いわば早期発見の問題としてどれだけ意識的にやっているか、そのための地域での医療との関わりという意味での働きかけを現実に実行しているかと言えば、やはりすごく弱いと思う。
僕らなんかで言えば会社に入って毎年毎年健康診断をするわけだよね。そういうものはシステムとしてある。だけど、そのような健康管理のシステムは、現実に在宅であるとか施設にいれば、抜け落ちてしまっている。在宅だったら余計にもっと努力をしなくてはいけないのに。今の問題を解決するためには、そこをもっとやるしかないだろうと、俺なんかは思っている。
市瀬:逆に言えば私は、医者に行って何言われるか分からないというところでの、怖さがある。特に痛みとか凝りが出てきた段階で、ひょっとしたらただの凝りではなかったりしてとか、腰が曲がってきていて自分で分かっている部分があるわけじゃない。そういう部分で「いつ死ぬかわからない」と思いながらも、医者に診断を下された時の、大変な病気だったときの危機感がありすぎて、かえって行けないという人もいるんじゃないか。特に遠藤さんなどは、本当は医者に行くの怖いんじゃないかな、「もう治らない」と言われるところでの。私は十年前から痛さで三日三晩寝られない時などは、明日死ぬんじゃないかという危機感はすごくあった。特に動けなくなった時などは。
志村:それは、危機感とは違うと思うな。我々健常者だってもちろんある意味ではそういうのはあるよ。何か自覚したときに、踏み込むと何言われるか分からない。それは、みんな一般的にあるよ。
市瀬:それが強すぎて。それもあるんじゃないかと思うの。
天野:でも、それは市瀬さんの独自の、個人的な体についての生活実感のような気がする。二次障害が発症した時点での話のような気がする。
小佐野:怖いというのもあるだろうけど、後に残るのは面倒くさいという感覚、階段があったり言語障害が無視されたり、薬しかもらえなかったという経験、みんなあるじゃない。あんな程度でまた行ってもどうせ治療なんかにはならないんだ、って。むしろ被害者意識として意識化されたものじゃなくて。ただ、面倒くさいから、あるいは怖いからぎりぎりになるまで行かない。で、本当にぎりぎりになってからあたふたする。というのが本当のところではないのか。
・・障害者の医療の背景にあるもの・
小佐野:僕ら障害者にとって医療の問題というのは、大雑把に分けて関連する二つの問題があるよね。一つは、医療自体が「障害者=治療対象」として見てきたという歴史があるでしょ。医療は「障害の除去」としての役割を担わされてきた。僕らにとって、自らの障害はいわゆる病気ではないんだよね。たしかに出発点は、出産時の黄疸であったり脳の発育不全であったりなどといういわゆる病気だったかもしれないが、日常生きている自分たちにとっては、障害は個性というか存在そのものなんだ。障害の「早期発見・治療、発生予防」というのは、障害者の存在を脅かすものとしてこれまで語られてきた。もちろん、一般的に病気にかかった場合は早期発見・治療は必要だし、二次障害になった場合も、まさに早期治療が必要だと思うけど。もともと、姿・形の異形さからくる単純な恐怖感や嫌悪感を背景に、障害者に対する「不具者」という差別感がある。不具者に対する治療・根絶という形で医療が使われてきたという側面がある。もう一つは、こうした異形者差別や、国家や社会からの健全者に比べて生産性が低いということに主眼をおいた差別観を体現した、「優生思想」の問題がある。西洋医学に対する障害者の不信感というのは、こうした歴史的な価値観からきているんじゃないかな。そもそも、障害者に対する差別姿勢から出発しているんだよね。それが根底にある。
天野:障害についての医療知識が欲しいが故に、人体実験に回される人もいた。そういうところで出発しているのが、身体障害者に対する医療だった。これは生活実感からも感じますね。
・・専門病院神話・
天野:なぜにこうまで多くの障害者たちが二次障害に至っても黙って生活をしてしまうか、表に出てこないかという難しい問題が横たわっている。これは両者に問題があるんだけど。困って医者に行くとセルシン飲まされて終わってしまう、という。
小佐野:卒業後の生活は、光明の卒業生の9割が在宅です。
志村:そうすると、在宅の人というのは少なくとも健康診断はほとんどないということ?
市瀬:ないか、同じ在宅でも通所施設で受けていればある。通所施設の場合は健康診断はやらなきゃ駄目と言われているから。
小佐野:さっきの天野さんの話でいけば、本人は問題意識ないわけで、親も何かあればS園に行けばいいと思っている。親は生活にゆとりがないととても健康診断に付き添ってなんていられないしね。行ったって迷惑かけるだけだし、と思うでしょ。
天野:それに、親のなかに神話がある。「S園に行けば大丈夫」という。そこでもやっぱり体をお預け、なのよ。あれは、ほとんど神話だよ。
志村:今でもその神話は生きているの。
小佐野:ありますよ。安倍さんのお母さんでさえも言っているもの。
市瀬:だって、あそこが認定して障害者手帳を出すんだから。
天野:生きる方向を定めるところ。で「この子脳性麻痺ですよ」と言われて、親ががくっとくる、その一発をかませる場所がS園だもの(笑)。
小佐野:一般病院で解決できないと全部S園に回されるんだよね。神様のような存在。
天野:結局そこで、自分の体として獲得できないような歴史を背負わされちゃうというか。それが一番厄介で難しくて、面倒くさい問題だ。
小佐野:でも気持ちはわかるよね、親としてもたらい回しにされたあげく、へたり込んでS園に行って、初めて自分の子供を問題にしてくれるんだもん。ほっとするよね。
市瀬:私は、あそこで歩けるようになったんだから。
小佐野:他の病院でたらい回しにされるじゃないですか。この病院ではわからないからって言って。S園に行くと、一応相手にしてくれるじゃないですか。ホッとする。救われた気分になる。子供もそれが当たり前だと思うんだから。度し難いよね。
志村:でも実際は、それから大変なことが始まるんだけど。
・・「医療不信」の根の深さ・
市瀬:障害の、例えばCPのアテトーゼ型だったらアテトーゼ型のことについては、医者なんかよりも私たちのほうがよく知っているわよという医療不信もあるんじゃない。
志村:ということは、自分よりも医者のほうが劣っているということ。それはそれで終わりでしょう。不信にまでなるには、もっと違うことがあるんじゃない。
市瀬:例えば、アテトーゼが原因で色々なところに支障が出てきているのに、他の原因に帰するとか。
志村:とんちんかんな診療をされている。
小佐野:結局、緊張止めの薬を飲ませるくらいのお医者、と。
志村:脳性麻痺者の場合の医療への不信というのは、一般的にはだいたいそういうところがポイントなのかな。
天野:0歳から20歳までのS園という完結したシステムがあるから、他の医療機関は関わりきれない。行っても結局S園に回される、遠藤さんのように。成人以後の脳性麻痺者は一般の病院に行っても受け入れがたいから、また閉鎖的な医療に戻る。そうすると、治すことしか考えていないから対応できない。そこで医療不信が起こる。二次障害を発症しても一般の医療機関になじめない。それでS園に戻るとそこでは、長年健全者に近づけるという至上目的でずっと回転し続けているから、二次障害に対応できない。で、また医療不信が起こる、という悪循環だね。
小佐野:一貫した医療不信がなぜ起こるのかという、歴史としてはそうだと思う。もう一つ、地域医療、地域に目が向いていかないのは専門病院に対する幻想が、あるだろうね。町医者には行かないもんね、たぶん。いわゆる神話の部分、それが地域に接するベクトルを阻んでいるんだよね。
・・「自立した患者」になるために・・・・・不信を乗り越えて・
天野:それに対するアプローチ、働きかけとしては、訪問看護や訪問医療で自宅の中まで入っていって、保健婦なり看護婦さん、リハビリの人達が手取り足取りやるという方法がある。そうしないかぎり、自分の体には関心を向けないだろうと思われる。
小佐野:日常的に家に入り込んでいくということだけど、下手をすると、また依存していく恐れがあるよね。地域医療の側の医者・看護婦・保健婦と、患者である障害者あるいはその親との自立した関係。つまり、医療というのは「自分の体を自分で何とかしたい」と思って、そこから関係が始まるわけでしょ。主体は患者の側にある。患者が自分の体を治す色々な方法を駆使していく、一つとして医者にかかるという問題があるんだから。
天野:それはやっていく中でしか始まらない問題で、やらないよりは、まずやっていく方がいいと思う。
小佐野:ちゃんと地域でどう自立していくかという問題では、制度的な整備、今の話題で言えば訪問医療が入るということだけでは不十分だ。専門病院がいいという信仰もそうだし、迷惑かかるから考えちゃだめということもそうだし、当事者がそういう判断に身を任せてしまう、そこから出てこられないことの誤りを問題提起をしつづけていくこと。
市瀬:確かに障害者の場合それがひどいだけの話で、本質は同じなのよ。医者だって言うと信用してしまうし、逆に言えば、みんな病気になるのは嫌だからなかなか無理して医者に行かない、情報が入らない、ということは健常者でもある。あまり特別ではないんじゃないかという気がする。確かに、比率から言えば障害者の場合、健常者の人よりも情報が入りにくいとは思うけど。
小佐野:障害者の医療問題の解決とは言っても、障害者にとどまることではない。そういう課題を含んで、どういう活動をしていくのか、という問題になるんだと思うんだ。
天野:自立した患者としてどうするか。自立した患者をどう作り上げていくか。患者として自立するということを、どう獲得していくか。
小佐野:かなり根深い問題。障害者自らが病院を開拓していったり、地域医療を作り上げていったり、自分のカルテを病院から取り戻すという姿勢にはなかなかつながらない、と俺は感じたんだ。やっぱりいざとなっても我慢しちゃう、迷惑をかけるから、という同じ構造が引きずられているような気がする。
志村:ただ、自分としては最近すごく感じているのは、よく説明をする医者と、しない医者ね。そこはやっぱりきちんと見たいなと思っている。そこのところは自立した患者だね。きちんと説明を受ける、説明をさせる。例えば薬なんかについても、風邪でも何の薬か聞くようになった。そこだけは進歩だな、後はあんまり。その辺からやっていくと面白いという気がしている。
・・人との出会いの中で・・・天野さんの場合・
天野:自分の体について関心を持ったり、自分の体は自分で管理していくという姿勢がどこで身についていったのか。そうした中で、多くの身体障害者に伝えられることがあれば、出してみましょう。僕の場合は、大学に入ってから。それ以前は、訓練嫌い、運動会嫌いの少年だった。何故なら、歩く格好が不格好で、苦痛に満ちていてどうしようもなかったから。訓練のときは頑張るが、他のときは何とか松葉杖を使わずに歩こうという、後ろ向きの努力を重ねていた。生まれた時から既にS園のお世話になっていて母子入園もしたし、多くの障害者とあまり変わらないと思う。母子入園のときに、やっぱり訓練の先生は偉いんだ、お医者様も立派な人で、親も従わせてしまうような人達、雲の上というか。それにしたがう親の姿を小さいときからかいま見ているから、影響力は絶大だった。従わなきゃいけない。それから、訓練するとお父さん、お母さんがやたら褒めるから、小さいころというのは素直だからそれがとてもうれしい。それで日常過ごしてきてしまうという流れがあった。歩けるようになったのは9歳のときだが、そのこと自体すごくうれしかった。歩けるようになってお医者さんから褒められると、なおさら有頂天になって歩き回っていた。しかし、歩けることでだんだん体力を消耗して二次障害的な傾向が出てきて、苦痛になってきたのが中学生くらいだった。中学一年の時にもう一度K園に入った。また機能訓練ばかりやらされて、歩くこと自体が非常に苦痛になっていって、体力の消耗も激しくて消化不良、あるいは大汗をかくから風邪を引きやすい。収容施設ってそれほど面倒見がよくない、着替えをしなさいとか、風呂に入って汗を流しなさいとか、そういう形では。一括管理、風呂は週2回、着替えもあまりさせない、気を使わない。矯正靴をわざとこわして、何とか歩かなくて済むようにやり繰りしながら過ごしてきた。大学に入る時、階段の多い大学で階段を利用できないものは学生にはなれないという進路指導の先生の言葉が、かなり重圧として僕にかかってきた。だから、無理して歩いて大学に入ったという経過がある。無理をした結果、入学して一年経過した時点で、見事に自律神経失調症、むち打ち症とか色々な障害が多発して、二次障害の事態に完全に見舞われていった。僕自身は、それ以前は自分の体に関して消極姿勢でしかなかった。生活訓練からいかに逃げ回るか。風邪を引いても我慢する。色々な病気にかかっても、学校の保健室が面倒を見てくれる。収容施設なら、看護婦さんが熱を測り薬を出してくれて、僕はそれを飲み続けるだけ。自分の体に関心はないし、逃げ回ることしか考えていなかった。大学に入ってからは、結局医者も看護婦もいない。下宿していたから親も離れている。そういう流れの中で、実際松葉杖で歩きすぎて体をこわしていったわけだが、まずやろうとしたことは、昔のワンパターンで僕は手術を受けようとした。ある先生の手術・・左足首のアキレス腱の内側へのねじり込みが激しすぎるので、松葉杖で歩いていて、これで参ってしまっていた。この腱を切ってL字型に固定する手術・・を受けようと思ったくらい、苦痛だった。思わず、前の歴史の繰り返しを模索しようとしてしまった。そういう時、大学の研究室で、体がしんどい、汗がダラダラ出て消化不良起こしている、目がかすむ、それで手術を受けようと思っていると話したら、体育学の先生が僕を猛烈に止めたんだ。「止めなさい。体に刃物を入れること自体、僕は反対だ。」って。何考えているんだ、お前はと相当強く言われた。「刃物を入れた途端に体のバランスが崩れるぞ」という言い方をした。よく知っているなと思った。後遺症もあるから手術は止めなさい、それよりも針治療やマッサージをまずやってみろ、と。その方が、体には回復する力があるから、と言われて。あんまり真剣に怒るもんだから俺びっくりしちゃって、あ、そういうもんなのかと思った。その時点ではそれくらいしか知識がなかったわけ。機能回復訓練も手術も、自分が今まで受けてきた医療の総括もなしで、困り果ててやっぱり昔のワンパターンを模索していた。その途端に大学の先生からビシッと叱られたんだな。
鍼って初めてなんだけど、痛くないのかななどと考えつつ、卒論の担当教員に言ったら、その先生が鍼灸師の学生を一人紹介してくれた。それで受けたら、初めて受けたせいもあって、体が一時的にほぐれちゃったんだ、バラッと。消化不良が治った、食欲も湧いてきた。僕自身、これには驚いた。痛いんじゃないかと思ってかなり緊張したけど、鍼の効果は絶大だった。生まれて初めて受けた、それが21歳のころだった。これは、続けようと思って、何度か打ってもらった。つまり、対医療との関係のなかで、よちよち歩きだけど独り歩きし始めた。かなり出会いがよかったと思う。和光大学という条件のなかで、職業的に既に自立を果たしている盲人の学生がかなり多く入学していて、大学の先生を通じてその人たちとすんなり出会えた。東洋医学との出会いだよね。鍼灸師の医者に自分から面倒を見てもらっても、有害ではないし友達としてもやっていける。これは、僕にとって運がよかったし、新鮮だった。そうした中で、自分の体の状態を言ってもいいし、診断してもらえる、話が通じるんだとわかったんだ。医者も受け入れてくれる。かなり安心して自分の状態を話せるようになったこと自体いい体験だった。その鍼灸師の学生は、忙しいし四六時中面倒を見てくれるわけじゃないから、今度は自分で鍼灸師の町医者に行ってみた。その先生もざっくばらんないい先生で、会った途端に何の抵抗感もなく「僕は打つ瞬間体が動いてしまうのでよろしく」と言ったら、ああわかった、じたばたするな、って押さえつけてばきっと打っちゃう、非常に乱暴な医者で(笑)。だけど親しみやすい、かと言って乱暴なわりに結構気をつかうんだ、寒くないかとか。それでバンバン打ってもらっていたら、いい加減慣れてしまうんだろうな、鍼については。普通の人のように打たれた結果、最初僕はノックアウト、寝込んでしまった。彼の診察室で2時間くらい寝そべっていたかな。何やかんやでお世話になって、という医者だったんだ。
夏休みに実家に帰ったら、また冒険心と好奇心でそちらの方の医者にも行って、その時の医者はかなり誠実な人できちんと診断を下してくれた。松葉杖で歩きすぎてむち打ち症の状態になったと、初めて診断された。
僕は僕で色々情報収集した結果、手術をした人は何人かいたと。僕のような状態になって手術した人達たちの失敗例を、当時からかなり多く聞かされた。実際友達が寝たきりになっちゃったという話も聞いたから、外科手術については警戒心だけが助長されていった。それで西洋医学は遠ざけるようになった。鍼治療やマッサージの方が心地いいし実際効くから、それに傾倒していった。和光大学以外で体をこわしていたら、外科手術に走っていたかもしれない。
あと一つ、階段を利用できない奴は学生になれないと思い込まされてきて、無理して体をこわしていったのだけど、その一年生の後半に開き直って車椅子のままで学生として入ってきた奴がいたわけ。彼女は彼女で開き直って車椅子のまま入ってくるわけ、一年後輩なんだけど。それで、あ、ああやって入ってきていいんだと思った。本来和光大学というところは、車椅子の学生は僕が入ってくる以前は一人もいなかった。そのかわり車椅子以外の身体障害者は全部とる。聴覚障害、視覚障害、内部障害、部落の人、朝鮮人、ありとあらゆる差別を乗り越えて撤廃しながら受け入れてきた大学という長い蓄積がある。なのに車椅子の身体障害者だけはなぜか一人もいなかった。だから、押し出す高校の方も車椅
子以外じゃないと絶対だめだとしてきた。ところがそれを無視して強引な入学をしてくる奴が一人出てきたじゃない。僕は既に入学願書受付の段階から、入試実施委員長から意見を聞かれているんだ。「すみません天野さん。今度車椅子の方が受けてこられるんですが
、私どうしたらいいかわからないので、意見聞かせてください。」って。僕は僕で無責任
にも、「入れちまえば何とかなります。」って。何とかなる、介助者がこれだけいっぱい
いるんだもん、と思って助言したわけ。とにかく入れることからしか始まらないから、入
れてあげてくださいと。それで勇気づけられて、入試実施委員長はその場でご決断なさっ
たそうで。それで弾みがついて入ってこれる条件が整った。そういうのがかなり大きいよね。なおかつ治療してくれる人まで世話してくれた。こういう経過の中で、自立した患者として成り立っていく。こういうことだったと自分では思う。
小佐野:不思議なところだったんだね、全体から考えれば。
天野:何か別世界みたいだね。僕は出会いがよかったね。
・・葛藤・模索・・・・・小佐野さんの場合・
小佐野:スタートラインはほとんど一緒だよ。S園の母子入園を受けて。K園に4歳の時に入れられた。4歳だから、少しでも障害が軽くなるようにって。子供としてはたまったもんじゃなかったけどね、いきなり親と離されて寂しかったし。そういう流れでずっときた。やっぱり訓練を一生懸命して、訓練で努力することはいいことだと思って育ったよ、俺だって。たしかに親からは褒められるし、そこは全く同じ。ただ僕の場合、医療に対するベースとしては、病気がちの母、それも小児リューマチや心臓弁膜症を患った。子供を産んではいけませんと言われて、でも必死に僕を産んで育ててきたという、命がけで人の命と向き合うみたいなところがある人。父の方はとにかく丈夫。病気なんて自分で治してしまうような人、しかも病弱な母を一身に支えて、平然と介助をし労働をし仕事に生き、僕の世話もするような。という状況で育った。だから、一方で丈夫そうな人に憧れる。ひとりっ子で期待されるし、学校でも期待されたせいもあって、優等生の健常者並みに近づいていかなければならないという重圧との間のものすごいギャップで、どうしたらいいんだろうと自分探しをずっとしていた。
もう一つ。親は確かに自立した医療との関係は持っていなかったけれども、対等な関係ということではものすごく自立していた。自分のことはちゃんと相手に説明するし、相手の言うことは聞く。客観的に物事を捉えて分析していく。それから、自分のことは自分でする。相手と交渉したり関係を作っていくこと自体は自分でする、というのを僕は周りでずっと見ていた。
だけどやっぱり、専門家幻想は続いていった。K園、S園。光明の場合は保健室があったけど、施設と違ってそれほど面倒見がよくなくて、結局自分で解決する、親が病院を探す。途中で丈夫になっちゃったせいもあるが、僕は保健室ってちゃんと行ったことないもん。校医だって一年に一回ポンと診察しにくるだけで、関係ない人達だった。もちろん当時は親が、何とかしていたわけだが。でも、自力で何とかしていくものなんだなという感覚を学んでいた。
小学校4年生の時に、親戚や知り合いの関係で指圧の先生が出入りするようになった。
そこで初めて東洋医学に出会った。有名な先生だったらしくえらくお金がかかったらしい。ちょうどそのとき障害が少しよくなって、足の付け根までのアパラート(矯正靴)で立っていたのが、足首までのアパラートで立てるかという状態になった。訓練の先生は、この調子で行くともうじき松葉杖になるんじゃないかと言っていた。松葉杖も板付きのアパラート状態でバランスを取る訓練もしていた。その直前指圧の先生が来ていたもんだから。指圧を受けているとすごく気持ちがよかったんだ、すごく痛かったけどね。日常的な強い緊張、体の痛み、おなかの収縮感とか、どうしたらもっと楽に生きられるんだろう、という部分の医療だったんだ、その指圧は。つまり、「障害を治す」ことではなくて、僕が欲しがっていた医療だったんだ。
天野:いつごろからそういう医療を欲しがっていたの、緊張が強くなったのは。
小佐野:小学校へ上がるくらいから、色々な人との関係のなかでアテトーゼが変わるんだ。なんでだろう、と。
天野:学校へ入ったのも大きなきっかけだったのかな。子供にとっては学校へ入るというのは、環境の激変だよね。それによって、アテトーゼ・緊張が強くなることはありうる。
小佐野:K園の思い出は、本当にトイレを我慢している思い出しかなかった。色々な障害者と出会えたという意味ではよかったが、とにかく苦痛のイメージしかない。だから、僕としては追い出されてよかったんだ、やっと逃げられた、家に帰れるって思った。当時僕は近所に友達ができていたから、その子たちと一緒に学校へ行こうと思っていた。だけど周りはみんなK園に行けと言う。専門家がK園に行きなさいと。冗談じゃない、あんな所に行ったら殺されるよ。折衷案で光明に行った。ところが、光明には入れないだろうと言われた。両親もそう思った。ようするに、障害の重さもそうだし、当時は超エリート校だからね。希望者の3分の2は入試で落としちゃう。だから、両親はすごく落ち込んでいた、絶望していた、受かるわけないって。僕は僕でプレッシャーは感じていたけど、これを切り開かないとまたK園(笑)。それをぎりぎり切り開いていった。それで受かっちゃって、僕から言えば、自分の才覚で切り開ける人生があると。
天野:話を聞いていると、精神的な重圧感とか抑圧感がかなりかかっているね。4歳のときK園に入ったときもかなりある。介助者が十分満たされていないという施設。
小佐野:しかも訓練して軽くなるんだよ、頑張って少しでも歩けるようになるんだよと言われて、それを一身に背負っていくじゃない。
天野:当時のK園は、すごい評判だったよね。都内でも1、2を争う訓練の厳しい所、あそこから出てきた奴はろくな奴がいないという評判があった。かなり性格が荒れるというか、弱肉強食の収容施設で、園生同士も差別しあって相当ひどい所で。
小佐野:めちゃくちゃ。十何人寄ってたかって髪引っ張られて、傷だらけで。リンチがあった。訓練は厳しくて、それ以外は放置。一日一回しか看護婦が来ない。
天野:その中で介助者は不足しているし、よけいに自分の体は我慢しなくちゃいけない意識ができてしまった。K園に行かないためにも光明に行かなければいけないけど、それでもエリート性を求められて、精神的な重圧や抑圧が相当あったんだろうね。
小佐野:自分の実態と、健常者の身になることへの幻想、期待との狭間で、分裂感が身体中を占めていく。これは何だ、脳性麻痺って何だ、と。この僕の緊張は何からくるのか。とにかく自分をつかまえて、自分の分裂したところを埋めて、自分を掴みなおさないとという焦りがずっと続いた。指圧というのは、体をトータルに考えて治療していく、部分的なものじゃなくて。当時かなり評判の高かった指圧師だった。親としては僕の障害を少しでも軽くしようとしていた。うちの親は訓練はいっぱいさせたけど、手術については疑り深い人だった。僕の子供の頃は、エクトミー(側頭葉切開手術、現在では行われない)が流行っていた。脳に刺激を与えたり電極を当てたりすると、障害が治るという。「早期発見・早期治療」が流行していて、その療法も全国を一世風靡した。僕の友達がほとんど受けて障害が全部悪化していった。うちの親は医学的に脳神経のことが分かっていないうちに開けて刺激なんて根拠がないと。刃物を入れるなんてよっぽどのことで、当然バランスが崩れるだろうし、そんなものは受けさせないと。それで僕は手術は受けないで来た。小学校の時膝の筋を切って伸ばす手術も、親のそういう姿勢があったことと僕自身手術が怖かったから、逃げ回って結局逃げきった。親がそれに変わるものとして東洋医学を考えて呼んできたんだろう。でも僕としては障害が軽くなるという以前に、体が楽になったんだ。血行がよくなってくるような感じが分かる。物を食べても旨いし。で、これだと思った。しかもアパラートで足首で立ち上がることも調子良くなった。指圧自体はすごく痛くて怖かったけど、楽になる分とても受けたかった。金の関係で、途中で切れたもんだから、よけいに東洋医学に対する信仰と抜群に効いたぞという原体験だけが残った。
天野:なおかつ、父親の方は自立した人間関係を作れるタイプの人だから、その原体験を説明しながら医者に説明したりする姿勢は自然に身につくな。
小佐野:それから、自分の体に対する好奇心とか、痛みや緊張の強さからくる切実な意味での探究心はあったね。高校くらいになって障害者運動も含めて色々な運動に飛び込んでいく過程で、お前障害者なんだろう、障害者の差別を跳ね返していく問題で主体的にやれよと周りから突き返された。自分の体から逃げないでやっていくしかないんだと。それまでの医療の歴史、優生思想や発生予防の問題、あるいは府中療育センターの動きのなかで、東大脳研の白木という医者の生体実験の歴史等を学んでいく。そのことでも、ますます医療に対する不信感は頭の中にできていく。それと同時に遠藤さんも含めて色々な障害者に出会う中で、自分の体から出てくるものを訴えてもいいんだよ、と。健全者に近づくということ自体に怯えないでいいんだ、と思えていった。高校を出てから自立生活が始まって半年くらいの間に、疲労とちょっとした怪我が化膿してぶっ倒れ入院する。その前にも入院したことは何回かあった。その度に医者が自分の言うことを聞いてくれなかったり、看護婦がアテトーゼにびっくりして点滴も打てない状態の中で、こっちもびっくりして緊張がどんどん強くなっていって(笑)。そういう経験はしていたが、親がついていたから。生まれて初めて自分の力で入院した。最初介助者を病院に入れることさえ分かっていなかったから、そのまんま入院してしまった。そうしたら病院で対応するのは、看護婦と准看護婦だけじゃない。人が足りないし親もいないし、ずっとパニック状態が続くわけ。やむにやまれず病院と交渉して途中で介助者を入れた。その時に初めて基準看護という制度とぶつかった。昔から一人で出歩き、高校の頃なんて新宿に飲みに行っているようなガキだったから、色々な場面で自分で交渉していくことは知っていた。それが病院でもできるんだと、いやむしろ自分で解決しないと殺されるとそのとき思った。それからはわりと丈夫だったし、後半は安倍さんと一緒になったら安倍さんの方の医療問題で精一杯だった。自分まで寝込むわけにはいかないぞと思いながら来た。それでも、風邪などはよく引いたから地域の医者にはわりと出会っている。Y医院というのはちゃんと説明してくれるし、アテトーゼなんてほとんどものともせず注射もしてくれるような医者だよね。そういう医者と知り合っていく中で、しんどくなった時に行ける地域の医者はある。風邪や内科系の病気くらいなら、というところまでは来た。25歳くらいの時から、世田谷の運動の状況が色々あって、自律神経が相当やられたり神経性胃炎にかかったりした。色々なものが破綻していく中で、世田谷にいて当事者でいるかぎりは、簡単に逃れるわけにはいかない、責任をとらなくちゃいけない。でもこのままじゃ死んでしまうから何とか違う生き方を見つけよう、体と付き合っていくんだと思ったんだね。西洋医学の病院に何度も行ったけど、通りいっぺんの検査と、緊張止めの薬と皮膚のかぶれを保護する薬だけで、その薬も全然効かなかった。そこで一生懸命東洋医学の文献をあさり始めた。気功、鍼、すいだま、指圧。定期的な治療の時間を作り、自分でつぼを調べて介助者と一緒に開発していった。
脳性麻痺の問題というのは、単に外科的・物理的な緊張止めなどで解きほぐせるものじゃないというのが俺の問題意識で、当時からずっとある。メンタルなものも含めて体全体をどう治療していくのか考えなければ。具合をよくするということじゃなくて、日常生活を維持していくための治療法。だから東洋医学を志向する。安倍さんの二次障害のことがあって、実際彼女自身そういう治療を定期的に受けていかざるをえない。それと付き合いながら自分も受けていくようになる状態だね。
・・痛みとのつきあい・・・・・市瀬さんの場合・
市瀬:自宅で町医者とお産婆の立会いで生まれちゃった。早産だった関係で、小さかった。一週間してすごい熱出して、黄疸と熱のせいで大変だった。生後半年経っても首が座らないから、おかしいなということであらゆる病院とか、鍼とか指圧とかあるいはお灸、色々な診療所回って歩いて、ひどい時はロボトミー(前頭葉切開手術、主に精神障害者に対して施されていたが、現在は行われない)の施設も見て歩いたという話もある。1年半してN医大に行って、やっとこれは脳性麻痺だからと言われ、親はかなりショックだったみたい。先生に、障害を将来背負うだろうし、目に見えて出てくる。だけどできるだけ外に連れて歩くようにと言われたらしくて、近所の子供と銭湯に誘い合っていく。祖父、母も芝居小屋が近くにあったせいで、どさ回りの芝居が来ると毎晩のように通ったりとか、色々私を連れ歩いてくれたの。
CPとわかる前に首が座らず骨が弱いのではないかと、近くのお医者さんで一日おきぐらいにカルシウム注射を打ちに行っていた。CPとわかってからは、一時期パンピング注射を10日に一回、3歳近くまでやっていた。パンピングをやりはじめて、腰が据わってきて座れるようになり、座ってあぐらをかいた状態でいざれるようになり、廊下を行ったり来たりできるようになった。
一年就学猶予もらってS園に母子入園し、障害者手帳をもらい、3ヵ月訓練したら、補助靴はいて杖つかないで手放しで歩けるようになった。光明養護学校を紹介してもらって、次の年に入った。小学校の2年には補助靴も取れたけど、一日何回も転んでは立って歩き、転ぶことが普通だった。脳しんとうは小学校だけで3回、救急車で運ばれた。中学3年生の時に腰痛が出た。父の親友の医者が見立てたのは座骨神経痛だった。最初に左が痛くなって、そのあと右に移って薬で止めて、修学旅行に行ったのはいいんだけどその後で一ヵ月寝込んだ。座ってもいられないぐらい痛さがひどくて起き上がれなくなってしまった。ちょうど定期試験のノート写しでノートを下に置いて書く格好が悪かったのと、無理な姿勢で歩いていたこともあった。おそらくその頃に今の脊椎が腰の中に入った状態が少しずつ起こってきたんだと思う。で、さらしを巻いて固定したり薬をもらって飲んだりしていた。
20歳過ぎて、梅ヶ丘実習ホームに通い始めて、安倍美知子という同級生がいたんだけど(笑)、一緒に通ううちに介助者を入れて暮らそうかということになった。当時介助を入れて生活している人は少なかった。境屋順子さんの所へ会いに行って、どうしたらよいかや考え方を話し合い、両親と引き合わせて彼女がやっていることを見てもらったりして説得して、安倍さんと暮らしはじめた。2年半ぐらいで自宅に戻った後も、実習ホームにはずっと通っていたんだけど、実習ホームの中では歩いていたの。その頃腰が悪くなっていたから、外では電動車椅子とか普通の車椅子を使ったり使わなかったりしていたけど、ある日実習ホームの中を歩いていて、転んで膝をひねって水がたまってきてしまった。足を使って生活していたので、足が使えないと電話のダイヤルも回せないし何もできない。環七沿いにある病院に行って、そこで水を3回抜いた。抜くと癖になるから、本当は抜きたくなかった。でも、パンパンに腫れているし重いし痛くて我慢できなくて、抜いてもらった。なかなか治らなくて8ヵ月もかかってしまったんだ。
20歳のころに機能訓練の先生が、腰がちょっと入ってきてしまっているよ、このままで行くと30歳くらいには腰の骨が入りすぎて内蔵を圧迫して死んでしまうよと言われた。それからも、腰痛はあったけど時々だったのでそんなに気にしなかった。でも36歳になり腰が痛くて骨が中に入っているなというのが余計わかってきて、おなかをこわしやすくなっているし、これはやばいかなあと思い始めたの。トイレや着替えが自分でできなくなってきて、タイプも足で打っていたのができなくなった。しょうがなくていざこれは外科かなと思いながら、いい医者がいなくて困っていた。たまたまそんな時、急性アルコール中毒で救急車で近くの病院に運ばれたら、若い医者がアテトーゼのことやCPのことを全然知らなくて、2時間私がお説教してやったことがあるの。医者がいるからこそ一晩様子を見て入院させてほしかったのに、帰れと言われ、頭に来ちゃった。それから医者はもうだめだと思って、医者にはもう行かなくなってしまった。その後5、6年で腰痛が本格化してきて、外科医を少し開拓しないといけないかなと思いはじめた。当時遠藤さんが検査で入退院を繰り返していて、寝たきりになっちゃった彼の状態をじかに見てきているから、早く行った方がいいかなと思った。そんな時、安倍さんが横浜の病院で手術をした、ちょっと風変わりで恐い先生がいるという話を聞いて、私は恐い先生のほうが好きだから(笑)、じゃあということで去年の5月に行ったら、案の定腰の骨が3分の2ずれている。腰椎の一番下あたりがずれているから、もう治らないよと言われた。手術は?と聞いたらCPの場合は手術しても術後のリハビリが難しい、歩くんだったら手術をするが、あなたは車椅子に乗りっぱなしだろうから、メスは入れたくないと言われ、腰用のコルセットと薬で今のところやっている。ところが、その後先生の所へ行った時レントゲンを撮ったら、首の骨も少しずれていることがわかったの。まだ最初の段階だから大丈夫だろうと言われて、首のコルセットだけをやっていたが、今年の夏は暑くてしなかった。
一日中車椅子に座っていると、夜になって首が痛くて頭痛がひどくなる状態がある。家にいる分には体をそんなにまっすぐにしていなくてよいから痛くなる率は少ないけど。今はそういう状態で1ヵ月に一回、とても遠いけど横浜まで通院している。今年の7月の終わりにやっぱりぶっ倒れて救急車で区内の病院に運ばれたとき、やっと内科のほうで内視鏡を平気で入れてくれる病院があって、嬉しいなと思った。今回は区内で少しは開拓できるかな、少しはCPのことわかってもらえるかなと、ほんのちょっぴり希望的になっているところ。でもたいていの医者は部分的にしか診ないからあてにはしない、というのが私の話です。
天野:今、鍼やマッサージは受けていますか。
市瀬:受けていない。以前はカイロプラクティックを月に一回くらい10年前からやっていた。カイロでは、背中は楽になるが、腰は痛くなってだめだった。灸をやった時は多少楽になるかな。あと、ダイエットして急に痩せて腰の筋肉が落ちてから痛くなったということもある。マッサージは怖いよ。変なところ押されたりとかで、せっかく寝かかった神経がぶり返し、痛みが1カ月以上続くので止めた。今後お灸やろうと思っているけどね。
志村:寝ていた神経が起きて、逆に痛みが出てくるというのは、治る過程なのかな。
天野:相当悪化している状態だ。市瀬さんは骨と神経がやられているから、ちょっと固まった筋肉をほぐすと神経にもろに触れるんだ。神経は筋や筋肉に包まれている。それで神経に触れると痛いじゃない。普通ならぽんと押しても弾力があるから神経には届かない。ところが市瀬さんの筋肉は、長年の蓄積でこり固まっていて、筋肉自体が劣化して、縄状態になっているからボンと叩けばもうはね返りがひどいわけ。触れること自体で神経をもろに直撃するという状態、という気がする。普通は筋肉をほぐしていくと、無感覚状態、痛み、痺れから順に感覚が戻ってきて、温かくなって回復に向かうんだけど。
市瀬:そう。首や肩は最初の段階の筋肉の凝りだからほぐせば治るけど、腰は骨と骨のクッションや筋肉自体が磨耗して、なくなりかけている状態。うつ伏せになればいいけど、座っていても横向きでも骨がとがって当たっているのが嫌というほどわかる。
天野:下手をすると、劣化した縄状態の筋肉と筋と、骨のあいだに神経が挟み打ちにあっている。感覚としては神経むき出しの状態。
小佐野:そうすると気功なんかどうだろうね。指圧はもっと悪いだろうけど。
市瀬:気功だと仰向けで寝ていないといけない。それがもろに骨にひびく。仰向けになっているのが、すごく辛い。寝ても起きてもどうしようもない。昨日みたいに電車に乗っていてガタンと動きだした拍子にギクッとなったりね。
天野:腰のコルセットはやっぱりやっているんだね、腰への重量負担の軽減のために。
市瀬:先生は、あなたの場合コルセットをはめても一時的だからかえってやめて、完全にはずれれば手術したほうがよいかも、と言われた。
小佐野:それは骨自体の問題としてあるんだから、それを根本的に解決しないと。
市瀬:痛みは我慢しなさいと。ここ7年我慢している。よっぽどの時は痛み止めを飲むなどしている。
天野:僕なんか聞いていると、そこまで放置したのが悪い。なぜそこまで頑張ったの。頑張りすぎだよ。
小佐野:3つの方法しかない。薬物で押さえ込んだ緊張を、薬物を飲みつづけることによって緊張を持続的に軽減するか、あるいは石膏で固めて絶対に動かないようにするか。あるいは、気功、授光で緊張を弛めるとか。
・・電動車椅子の功罪・
志村:市瀬さんは電動車椅子をとても上手に操作するけど、あれは本当に体を悪くするなと思う。上田さんがまた電動で表に出ているな、元気だなと見ていた。その彼が、電動車椅子に乗れなくなっちゃって、それでこれは体を悪くするなって。
天野:ある入所施設の話で、自力で全然動けなかった重度身体障害者の人達が、電動車椅子に乗ってみよう、自立しようよ、施設の外に出ようよという動きがあった。ところが、あごで操作して電動に乗った園生が、ほとんど全員体をこわしてみんな、がっくり。園の職員があごでやらせちゃったんだって。
小佐野:電動の場合、この界隈で乗っていた連中もみんなやられている。市瀬さんももうだめになっているし、安倍さんしかり、上田さんしかり。
天野:電動の操作上の問題、操作している中で体にこたえたのかな。
小佐野:それは分けがたいね。
天野:ただ、その園の人達は明らかに電動車椅子のせいだ。当たり前じゃない、あごでやったらここに負担がくるのは。背中を丸めて。無我夢中なんです、やっている本人も、職員も、「外に出ようよ」という。一つのレバーで全部操作するでしょ。手動の方が断然楽だよ。
小佐野:アテトーゼを押さえ込んで、一つの動きに集中するわけだからね。一人で動きたいという願望、それから職員の側で言えば残存機能を生かしてとか、色々なことが複合的に絡み合っているけど。
天野:関係性の問題として、最近では利用者の側の意志や希望は、制限してはならないという不文律があるんだ。アルコール依存症に近い人でも希望すればお酒を飲ましてしまうんだ、しょうがなくて。熱心な職員になればなるほどそういうジレンマに陥ると思う。介助者とか腹蔵ない関係や位置なら、葛藤はあっても結構言いたいことが言えると思う。しかし、施設職員の枠にはまり込んだ場合はね。
小佐野:細かいことまで園生の言うことを聞いていたら、職員の身が持たない。たぶん二次障害も含めて脳性麻痺の体に対する理解が双方にない、園生にも職員にも。基本的な問題意識が欠如している、それが前提にある。その上で、自由に歩きたいとか健常者の側に近づきたいという願望は園生の側にはあるし。職員は職員でADL(日常生活動作)幻想、動くところは最大限に活用しましょうという生き方や努力のあり方。車椅子に限って言えばそういう視点がある。電動に乗っていてだめになっちゃう、この問題はかなり深刻な問題。手動車椅子のほうがよっぽど健康的だ。ただし手動でも、天野さんのように一人で、後ろを振り向きながらこいでいる姿勢。あれも首と背中をやられてるね。
志村:どっちにしても、やっぱり電動は使わないような・・・。
小佐野:でも、介助観の問題もある。介助付けたくなくて電動がいいと言う人もいる。電動だけで自分で無理したほうがいいと。電動車椅子がどうして普及するかというと、一人で歩きたいということがある。介助者やお母さんと動くと煩わしい。
天野:絵の展覧会に行ったとき、歩ける人と車椅子の視線が全然違う、見たい絵も個々人で違う。電動だといいと言うね。自分のペースで見られるから、あえて絵画展は電動車椅子で行くという人もいる。
真っ暗な話だが、施設の中でストレスとか激しいから、あごで電動車椅子を操作して気晴らしに一人でどこかに行きたいんだ。人間関係とか今の現実から逃げたくて、とりあえず、後のことは考えないようにしていると思う。あんなことやっていたら、すぐに二次障害は発症するよ。それを我慢してでも体をこわしてでも、嬉しいんだ。刹那的でその場限りで欲求が満たされれば。