いよいよ手術だ!
次の予定日は28日と決められた。しかし院内に2度目
の風邪の猛威が吹き荒れ、私もその毒牙にかかってしま
った。熱も30℃を超え食事がとれず点滴の日々を送った。
ついでなので書くが点滴が終わっても点滴の針は手に刺
したままテープで止めておき、次回も数日間そこから注
入する。
喉が腫れて痰がひどく出た体調は最悪だ。しかしこの機
会を逃すとO先生はアメリカに研修に行ってしまうと聞
いていた。大勢の手術待機者がいる中何としても自分の
番を確保せねばならない。病棟の看護婦も度々足を運ん
では看護のなさに落胆の色。
なんとか薬で押さえ込もうと内科の医師に相談して強い
薬が処方された。
O先生も心配して「どうする」と暗に自分で決めろと言
っている。
「先生こうなっちゃもう、まな板の鯉ですからスパーと
やってください」と言うしかなかった。
前日は和室に行って畳に上でよたよたと歩く姿をビデオ
撮影、この時は蟹のように斜めだが何とか3〜4メート
ル位歩けた。麻酔医、手術担当看護婦、ICUの責任者
など次々と病室まで打ち合わせにやって来て、顔合わせ
をかねて注意事項など聴く。
風呂が終わると、頭と股間の毛を剃ってもらう。男性に
とっては一大事なことが若い看護婦によって平然と行わ
れた。念のためもう一度血液検査が行われ健康度のチェ
ックがなされた。ぎりぎりでOK。でも熱はまだ下がら
ない。
当日朝また浣腸。熱は29度、喉が痛い。
8時半、足首に名前を書いたリングを填める、まるで死体。
T字帯を結び白い手術着に大黒帽子の姿でストレッチャ
ーに乗せられ1Fの手術室に向かう。冷たい金属の手術
台に寝かせられた。麻酔の注射、鼻にガスマスク、数を
1から数え15までは覚えていたが・・・・
あとはナッシング。
ポンプで酸素を送るため鼻から肺にチューブを入れると
聞いていた。

「大西さん、大西さん」頬を2度はたかれた。「おわっ
たよ、成功だよ」と何処か遠くで声がしたような記憶が
あるが、ベッドが手術室から廊下に出たとたん天井がぐ
るぐる回った。
記憶がとぎれてしまったのだ。
次に気付くと目の前に女性の顔が3つ覗き込んでいた。
「気付いたね」とホットした様子の看護婦さん達だった。
私は朦朧としていたがやっとICU(手中治療室)の中だと
判った。
今までの病室とは違い辺りが最新の設備ばかりだ。薄明
るい間接照明、空気清浄機がサァーと唸っている。静か
だが気に障る音だ。点滴警報機、BGM装置、テレビも
液晶画面と言った具合。
胸に3箇所小さな感知機が留められて線が3本出ている、
呼吸音、心音、血圧などを常時測定して画面で目測でき
るようになっていた。外れると警告音が出る。
暫くして白衣にマスク姿をした妻が面会にやってきた。
ICUは滅菌室であるから手も消毒、履物も専用のもの
に履き替えて入室するのだそうだ。
喉も鼻もつまって息が苦しくなる。痰が引っ切り無しに
出てティッシュで拭うのが忙しい。
時々喉に詰まらせて吸引機で吸い上げてもらう。ネブラ
イザー(蒸気吸入器)で6時間に1度、消毒剤入りのス
テロイドを吸入する。点滴壜が2つ抗生剤や痛み止めと
共に食事の代わりの栄養剤が加わりチューブが2本ぶら
下がっている。
左の肩がやたらと突っ張って痛い。背中の双眸筋が緊張
のため硬くなってこれも重苦しい。
両腕をLの字にして上向きに開いて下げられない。鉄腕
アトムが飛行するときのようだ。
でも足は真っ直ぐに伸びていた。目も異常な緊張でカッ
と見開いてかなり眼圧が高いなあと思った。
傷口は不思議と痛くはないが縫い目から2本のチューブ
で血抜きをしている。チュウブの端には四角い箱がつい
ていて計測できるのだ。膀胱にはバルンが差し込まれ管
で尿が自然に排出される。袋に貯められこれも計測する。
15分と同じ体位では居れなくなり、左向いたり、右向
いたりしたくなる。その度に看護婦2人がかりで1人は
頭を支えて、もう1人がベッドの上で私の腹の上にまた
がり体を持ち上げて回すという看護も大変な重労働なの
だ。24時間つき切りの万全を期しての体制。
余談になるがICU(Intensive care unit)の看護婦は
選り抜きの特別チームでピチピチギャルばかりだと聞い
ていた。若くないと体力が続かないだろう。ちなみに白
衣ではなくピンクのパンツ姿である。
天井のパネル(エアコン)に幻覚がテレビ画面のように
見知らぬ風景が動いて観える。かなり脳神経が麻痺して
いるらしい。よく走馬燈の様にというが本当に自分の過
去が早送りで巡る。高速になると白黒になる。強い痛み
止めの所為か麻酔の後遺症もあるかもしれない。この日
から十一日間眠れない日が続いたのだ。点滴から注入す
る弱い導眠剤では効果なかった。でもこれ以上強いもの
は術後はダメと医者に断られた。
毎日小型のレントゲン車が出張撮影にやって来る。こん
なにX線照射されて大丈夫なのか?
これって被爆??検査のためだから仕方ないけどなあ〜。
翌日やたらと喉が渇いた。「おなら」が出るまでは水も
飲めない。唇をお湯で拭いてくれる。
いよいよ水もOK、氷を一かけら口に入れてもらったと
きはこんなに美味いものかと感激した。
緊張が激しく冬だと言うのに全身に汗がふきだす。少し
甘いアクエリアスを例の吸飲みから飲む。これが喉の腫
れには心地よかった。お湯で体中拭いて貰う。その度に
寝着を取り替えてもらった。
術後に着用する指定の寝着は前開きの和洋折衷で着せ替
えがしやすくなってはいるが、チューブが腕にも首にも
胸にも股間にもと絡みついているので着替えは大変。
流動食が始まった。おも湯とコンソメスープ「飲みたく
ない」と言うと「内臓の働きを元に戻すために早く何か
を体内に入れて胃袋から吸収したほうがいいのよ」とい
われ、嫌々ストローで飲ませてもらった。3日目には2
分粥になった。喉が腫れているのでなかなか食道に入っ
ていかず、息が出来なくなって咳き込んだ。喉の骨が固
定されると飲み込みがうまくいかなくなるのは当然だな
とこの時気付いた。思い切ってゴクンと飲み込まないと
嚥下しない。
後で聞いた話だが肺のチューブを抜くとときに喉に傷を
つけたとのこと。風邪のため喉が大きく腫れていたからだ。
術後3日目の昼前病室に戻ってきたが、猛烈な緊張が続
いていたためか他人の話し声が騒音に感じられて焦燥感
にさいなまれた。婦長に頼んで2人部屋に移してもらっ
た。
ここではバイクの交通事故でかなり重症な青年と2人切
り、看護婦や医者が頻繁に出入りした。が幸い騒音には
悩まされなかった。
ところが、ステロイドの蒸気を肺や胃の中まで吸い込ん
だせいか(血管を収縮させる)、喉の傷から腸に血液が
溜まった所為か循環器が働かなくなった状態になってし
まった。外科の先生が駆けつけて来て食餌禁止となる。
それから4日間点滴の洪水がやってきた。その間も神経
は張り詰め意識は明朗なのに幻覚が現れた。何百と言う
点滴壜が空中に並んで次々と押し寄せてくる、おまけに
その管が幾つも絡まって蛇のように迫ってきた。やたら
と迫ってくるので手で払いのけようとしたら、ニューと
3.4本手が現れた。その手も幻覚に違いないと思いな
がらギュウと掴んで跳ね除けようとしたら、なんと看護
婦さんの手であった。
やがて傷口が乾いてきて血液のチューブを抜く。煩わし
かった尿管も抜いてもらい、気分的に楽になり自分でや
っと体位がかえられてほっとした。
横向き用4センチのスポンジと仰向き用の枕2センチの
ものを並べて使用した。これに落
ち着くまで何種類も試しながら何日もかかって決めた。
1週間目に傷口の抜糸、自力で起きてよいと言われた。
電動ベッドの背を立てて窓から外の風景がよく見えたと
きは死ななくてすんだなあと思った。
肩に痛みがあり腕が良く上がらなかった。骨盤の採骨し
た傷口が体をひねるたび痛かった。
手術が伸びて金沢ボランティアのケアーマネージャーに
再度スケジュールを立て直してもらい、2週間朝昼の食
事介助のお世話になった。
食事の度に違う人がやってきて食べさせてもらうのも楽
しいもので、それぞれ会話の質が違い、介護のなれ不慣
れもあるが病院の外の世界を感じ元気が出る。この時期
は第一次の快復期の頃で粥食が取れるようになり、心の
支えをもらったように日増しに元気をとりもどしていっ
た。7人の皆さんの暖かい奉仕に感謝申し上げる。夕食
の面倒は妻にしてもらったが毎日100km近い距離を
2時間近くかけて高速で往復するのは大変なことだった
ろうと思った。
術後9日目にベッドから起きて車椅子に乗ってトイレに
行った。まだぎこちなかったし首の付け根が扱ぐたびに
響いた。
2週間目からリハビリが再会された。両足に1kgの錘
を巻いてベッドの上で仰向けになり片足30回づつ膝を
伸ばして持ち上げる。次にゴムベルトで両足を縛り、足
を開く。その後マッサージと屈伸運動をする。
3週間目に傷口にテープを貼ってもらいシャワーを浴び
る。例の魚屋さん姿の看護婦介助。
1ヶ月が過ぎた頃から平行棒で歩く練習だ。大抵の患者
が術後1ヶ月くらいから歩き始める。しかし私の場合は
3ヶ月過ぎてもだめだった。リハビリの先生が「再手術
する」って言われてないですか?と聞かれたこともあった。
並行して手先の訓練もしていた。洗濯バサミを止め換え
て並べるとか、おはじきを箸で掴んでお皿に入れる。腕
の運動に棒の真ん中に錘を巻いて頭上に持ち上げる。
リハビリは患者個人の状態によって千差万別であるため
主治医との横の連絡や個人の要望も重要な快復の要素と
なる。
私は結局5ヶ月間リハビリを重ねた。しかし歩行器に捕
まって自力で400mくらい歩けるようになった頃から、
自分はこれまでだと観念せざるを得なかった。
入院した頃の状態にほぼ近づくことで諦めざるを得なか
ったのである。入院が長いと早く退院したくなり主治医
に「退院はいつ頃ですか?」などとせっつくようになる。
後から入院して同じ手術をした脳性麻痺の若い子は先に
退院していくのでよけいである。
レントゲンは1週間に1度、月曜日の午後呼び出しがあ
り1階のX線室の前に並んで順番を待つことになる。
頚椎の場合前向きと横向き前屈、上向き側面の3枚を撮
影する。そして部長回診の時そのフイルムを見せてくれ
るが、骨の端が白く半透明になれば新しい骨が形成され
たことになると聴く。
病院の中を車椅子で徘徊ができるようになって、自宅に
ADL体験のため2日間帰宅してみた。トイレや風呂場が自
由に使えるか心配だったからである。
結局退院後手すりをそれぞれ増設することになった。
一事帰宅は2泊3日まで主治医の裁量で許可になる。
車に乗るとその振動でブレーキやアクセルが踏まれるた
びに首の付け根が痛かった。この痛みが無くなったのは
術後1年経った頃からであった。もちろんこれは個人差
があろう。
なお私は入院に際して、新しく軽く動き回転率の良い車
椅子を購入した。出来るだけ腕や首に負担を掛けないた
めである。
入院してから6ヶ月目にやっと退院の許可が出た。再度
ミエログラフィー(脊髄造影)の検査を受け神経圧迫や
骨と金属のおさまり具合に異常がない事が判明した。
退院しても最初の3ヶ月は月1で、その後は3ヵ月に1度
の割りで外来検診をする。
退院後のリハビリも私は新桜町リハビリセンターに週1
で通っていたが、3ヶ月たった頃腰が痛くなって膝も痛
くて「とてもリハビリは無理だ暫く休みなさい」と言われる。
やはり後遺症とでも云うか、体のバランスを崩してしま
ったため、腰や膝にそのしわ寄せがやってきたのである。
今、痺れや感覚は多少良くなったし、タオルも絞れるよ
うになった。肩や首の痛みはほぼ消えた。それだけでも
いいじゃないかと思う事にしている。
二次障害の快復を願い手術を受けたからといっても一旦
壊した体は元には戻らないということを身をもって体験
したこととなった。
医学は日進月歩で進歩している。今後の新たな治療法も
出てくる可能性も否定できない。
西洋医学のみに頼ることなく東洋医学への模索も盛んに
アプローチされている。

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