脳性麻痺者の二次障害と「頚椎固定手術」の経験

T、脳性麻痺者よ若くても二次障害は忍び寄る
 はじめに
脳性麻痺者は不自由な体にも拘わらず精一杯の努力をし
て社会生活に迎合して生きてきた。
その努力がどれほど身体機能や神経作用に過酷な影響を
与えているか計り知れない。
頚椎変形や腰痛症などに陥る危険性を早くから自覚し、
過齢と共に生活習慣をセーブできればもっと二次障害に
苦しむ人を少なく出来るだろう。
しかし、たいていの障害者は一般社会の生産手段の一員
になることを目指す。障害が軽ければ尚のこと健常者と
の就労の機会を享受し、その努力を惜しまないのが常で
あった。
不幸にして障害を進行させてしまった場合、早めに適切
な医療機関の診療を受けられれば幸いであるが、労働と
受療を両立させようとしてジレンマに陥ってしまう。そ
の事がストレスを大きくし、解かっていても体に無理を
して痛み止めや貼り薬で誤魔化しながらひたすら労働に
勤しむ結果となっている。
ただ近年、療育や医学的検知上、出世から幼児期にかけ
て医者と親が早くから予防的処置を行い少年期に至るま
で療育センターなどで障害の軽減化を図る努力をしている。
したがって自立して社会に旅立ったときから二次障害が
忍び寄ってくる事を自覚して、無理をしないように自己
管理をしていくことが重要だと思うのである。
ここに私の例を紹介することで反面教師的ではあるが、
障害と生活についての考察を促すことにしたい。
そして万が一不幸がやって来て手術を奨められたとき、
病院生活についての不安などを解消できれば知っておい
ても損はないと考える。
参考になれば幸いである。
頚椎変形症の痛みに苦しんでいた
今、私は61歳になった、脳性麻痺一級の在宅障害者で
ある。手足の機能が極端に悪化して車椅子専用住宅に篭
もり妻の介護を頼りに生活をしている。
1992年ころから足がもつれ徐々に歩けなくなってい
った。今考えるとそれまでに幾度となく転倒や脳天打撲、
むち打ちなどの頚椎に負担のかかる傷害をうけてはいたが、
幸いに復活でき、なんとかその時点では歩けていたのである。
車の運転が出来たので歩く機能をかなりカバーできた。
首や肩の激痛はそれまでにも度々あったが、手足のしび
れや痛みが酷くなって仕方なく近所の開業医の整形外科
でマイクロ波照射や貼り薬で痛みを抑えながらパソコン
のキーを打ち続けていた。(当時印刷会社の電算写植下
請業)印刷会社5社と契約していた、受けた仕事が年末
には“だんご”になって期日に間に合わせようと必死で
頑張った。指先が針を刺したように痛くなっても軍手を
はめてキーを打ち、長時間の集中と異常緊張が続くうち
に肩や首が固まって石のようになっていた。年明けには
とうとう指が痺れて動かなくなってしまった。
頚椎障害のことは知人の例を見て何となくは知っていた。
分っていながら身体を酷使して首の骨をすり減らしてし
まったのである。
しかし、首の骨がどうのと詳しく判定がでるまでにはい
わゆる大病院の整形外科や神経外科を転々とさ迷うこと
となった。
障害者専門医へかかるように言われ国立リハで診て貰っ
たが、手術をするにも通うにも近くのほうが良いだろう
との配慮から板橋の東京都療育センターのY医師を紹介
された。だがこのY医師も手術については消極的であった。
長年かけて変形磨耗した頚椎を治す方法は見つからなか
ったからである。
椅子に座りっぱなしの生活が続き、ろくに散歩もせず仕
事に熱中していたこともあり、とうとう下半身の麻痺が
痙攣に変わり伝い歩きがやっとになっていた。仕事はド
クターストップ。痛み止めを服用の日々が続いた。
車椅子を申請したのは1995年春のこと。
二次障害という過酷な運命に見舞われたことで、私は本
当の障害者の不自由さを自覚することになった。この時、
自分は障害者であるという自覚をやっと持てたのである。
障害を認めはしたが克服までには至らず、あきらめだった。
毎日が自己嫌悪と所在無さで無意味に過ぎていった。
世田谷区の東京都車椅子専用住宅に引っ越して来たのが
1998年4月。
ここで関東中央病院のS医師は頚椎5番6番の間が狭いの
でここの神経が圧迫されるとの診断、首のハードコルセ
ットを創ったのは1999年夏。機能低下が進むばかり
であった。
障害者総合福祉会館で機能維持を目的にリハビリに通う
ことになって一年が経過したころだった、職員のSさん
から、インターネットに掲載された藤村和子さん(自立生
活センターHANDS世田谷)の頚椎手術の顛末記のコピーを
もらった。
それを読んで重度の脳性麻痺でも頚椎の手術をしてくれ
る病院があることを知った。
金具で頚椎を固定するという方法で神経の圧迫を除去す
るという驚愕的なものであったが、私にはひと筋の光明
のように感じた。直ちに藤村さんに電話をいれて横浜南
共済病院のO先生を紹介してもらったのである。症状が顕
著になってから9年も経過していた。
2000年1月28日、私は頚椎3〜5番までのチタン挿入
によるネジ止め固定術を受けた。

U、頚椎変形症と手術
頚椎固定術を決断するまで
頚椎固定術を決断するまで私なりにかなり悩んだ。毎日
のように電動車椅子で多摩川の土手に行き流れる水を眺
めて過した。
手術をしたからといって治癒するという保障はない。し
かし、このまま放置すれば機能は極端に衰退していくの
は目に見えている。ADL(日常生活動作)の低下が極
端に進んでいる現状を改善するには物理的な方法でも根
本を治療したほうがよいのではないかというのが私なり
に考えだした結論であった。
関東中央病院のS先生はアテトーデには「麻酔を使用して
もMRの撮影すら無理」。まして手術は難しいと手をこま
ねいていた。
このS医師とはインホームドコンセントがとれていたので
何でも相談できたが、紹介状を書いてもらうてまえ頚椎
固定手術についての藤村さんの文章を見てもらい意見を
求めてみることにした。
「金具で止めるのかい?そんな手術をしたら多分他の部
位に衝撃がくる。背中や腰に大きな負担がかかることに
なるよ〜」と消極的な意見だった。
自分でもそのことは不安要因のひとつではあったが、ひ
ょとすれば痺れはとれるかもしれないとかすかな希望が
あった。この希望があったからこそ決断が出来た。
“検査だけでも受けてみたいのですが”と言ってともか
くレントゲンフイルムを借り、紹介状を書いてもらった。
手術をするにしてもその結果報告をすることを約束した
うえで。

横浜南共済病院では
 O先生の診察予約から約3週間後やっと初診を受けた。
まず手足の感覚麻痺の状態を判定するのに、「ここ(顔)
が10としてこれ(足)は幾つですか」とギザギザの小型
マルノコでゴリゴリと撫でる。このやり方は初めての体
験だった。レントゲンを診るなり「なんでこんなになる
まで放っといたんだ、病院に行かなかったのか」随分ぞ
んざいな医者だなあと思ったが、これが名医の感覚なの
か(障害者専門の病院に行くように言われたり、痛み止
めや湿布薬しかくれない病院がほとんどだというお座成
り診療の現実を知らないのだろうか)と唖然としていた。
大きく右に傾斜した頚椎の椎間板は潰れ、臼状の骨と骨
が磨れて三角形になり、当たる部分がギザギザと石灰質
が付着している。おまけに角からはバリが何本も出ていた。
「ここなんか新しい骨を造ってしまっている」と先生は
首をひねった。確かに瘤状に骨が隆起していた。頚椎レ
ントゲン写真が私には梅の老木のように見えた。
即入院の印籠を渡された。でもそれからベッドが空くま
で2ヶ月以上かかった。

入院生活は
入院したのは12月の24日、巷ではイブに浮れている寒い
日だった。私の部屋は4階西病棟6人部屋(今の基準は
一部屋4人のはずだ)の入り口、部屋は明るかったが入
り口は戸が開けっ放しで廊下や隣の部屋の声が丸聞こえ。
1人分のスペースは狭くカーテンのむこうから隣人の息
遣いまで分ると言うストレスの溜まり易い環境であった。
おまけに廊下を挟んで目の前のトイレの臭いが気になった。
ここでは頚椎の手術を受ける人が多いらしく宇宙人のよ
うな格好で院内を闊歩している姿をよく見かけた。ハロ
ーベストという医療用具だと聞く。耳の上左右に鉛筆の
ようなピンを立て六分儀のような金具を頭上で固定して
ある。これを肩からがっちり鉄のベストに取付けて止め、
首と頭が動かないようにしてあった。後で知ったのだが
術後の過程によって装備も変わる、概ね2ヶ月過ぎから
頭上のピンを外し、首の後ろで支える金具のトリピーと
言う装備に変わる。その後快復期には専用のソフトカバ
ーを首に巻くエリマキトカゲのような格好になる。この
格好のままベッドに寝るわけだから慣れるのも大変だと
思った。
しかしアテトーデのある脳性麻痺の患者には適用しない
とのことであった。
腰の手術も今では切開せず、腹らから幾つかの穴をあけ
内視鏡で画面を見ながら操作して椎間板を除去し、やは
り骨を挟み込んでチタンで固定する方法があると聞く。
不安だった部屋の雰囲気も整形外科病棟はお互い障害を
担って入院したわけだから、新入りの者には親切だった。
病室では社会的地位とかジェネレィションギャップなど
関係なくすぐに慣れて和やかな空気に包まれて過ごせた。
健常者がこの病院に入院すると障害者についての理解を
深めて帰る事になる。普通の人たちから無視されていた
者もここでは同等の患者になれるという必然的ではある
けれど特殊なプチ社会が出来あがっていた。精神的バリ
アフリーとでも言うべきか。
4階病棟には常時4〜5人の脳性麻痺患者が入院中であり、
CP軍団と呼ばれるほど情報交換の場を設けていた。他に
もトリピイ集団とかヤニ中毒軍団、車椅子艦隊(横須賀
に近いせいだろう)などの集団で呼ばれた。中でもネッ
ト集団は影の忍者集団と呼ばれ何か変わったことがある
とEメールで翌日には4階中に拡まってしまうという情報
網が存在した。
東京から神奈川の病院に入院した在宅障害者の場合、当
然国民健康保険の適用はあるが、東京都の障害者医療証
が通用しない。いくら位自己負担があるのか当初不安で
あった。
請求書は半月〆で本人へ請求されるが、まず全額自費で
支払い、後程区の健康保険課と社会保険事務所の医療助
成係りに申請すれば法定医療費が別々に返還されること
が分った。
ベッド脇のテレビも冷蔵庫も共通のカードを購入して使
うようになっていた。
朝は6時起床、8時朝食、9時過ぎから回診、医者が二
人看護婦数人で、院長回診や部長回診などはもっとぞろ
ぞろという感じで・・・
医者もそれぞれ専門の部位を担当していて頚椎の患者は
この先生、股関節の患者にはあの先生というように同じ
整形外科でも担当医が違った。
回診が終わると大抵の患者が1階にあるリハビリ室に出
かける。リハビリ室は体育館ほどの広さで、8人の治療
師が2.3人の患者持ち回りで忙しくフル稼働である。
この病院に入院して整形外科では特にリハビリが重要な
治療であり、治療の大部分を占めていることを知った。
そして院中の術後の患者はこのリハビリで快復に向かう
と言う地道な治療の現場であることに気づいた。
夜は9時から「お変わりありませんか」と点呼と看護処
置をして睡眠薬などを配られる、当番看護婦は患者の体
調など変化をメモして看護日誌に記入する。
余談になるがここの病棟の看護勤務は二交代制、つまり
12時間以上働くというハードなものだが天使の笑顔は
わすれてはいなかった。
10時消灯、全員カーテンを閉めて寝たふりをする。そ
れからテレビ観賞が続く。食事のとき術後の患者と脳性
麻痺者には補助看さんが特別の配慮をしてくれる。
まずお茶を半分注いでから氷水を少し足して、湯飲みを
掴んでも溢しても湯傷をしないようにとの気使いだ。同
室の人の勧めで蓋付きの吸飲みタッパウエアとストーロ
を売店で購入した。これは寝たままでも水が飲める便利
なカップなのだ。ご飯やお吸い物などの椀の蓋を開けて
行ってくれる。パン食のときはバターやジャムを塗って
もらう。何分一日570円程度の食事代だからたいした
ものにはお目に斯かれないが季節感や調理に工夫と愛情
は感じた。しかし海の近くとあって魚がよく登場する。
私は魚の骨と身をほぐしてもらっていた。これら手のか
かる援護がごく普通の出来事のように為されていること
に“さすが〜”と脳性麻痺を扱いなれたスタッフがいる
ことに大いに感激した。
週2回の風呂も当番の看護婦が魚屋さんのような格好を
して浴室介助してくれる。

造影剤による検査
 いよいよ検査、前夜9時からは飲み物も禁止、翌朝浣
腸をされて腸の中をきれいにする。
100ミリ浣腸の大きさと威力には驚愕した。
通称「ミエロ」という脊椎造影検査は回転するレントゲ
ン台のうえで脊髄にコバルトかなにかの入った造影剤を
腰の辺りから注入する。そして逆さずりにされて注入液
が頸部に流れて来るのを見定めて(モニターで監視)撮
影する。スタッフ5人掛かりで体が動かないように抑え
たり引張ったりしながら、大変な作業でやる方もやられ
る本人も体力を消耗する。その後すぐ寝たまま白いドー
ムの中に押し込まれCTスキャンで断層撮影。これは15
分くらいで終わるが、合わせて1時間も掛からない検査
だけれどドッと疲れた。
部屋に帰ってベッドに6時間拘束、その間点滴をうけな
がら2リットル位スポーツドリンクを飲む。造影剤を体
外へ排出するためであり何度も尿瓶を往復、看護婦さん
の手を煩わすこととなった。
「途中で起き上がると頭が痛くなる」と言われたが、そ
の後実際2〜3日頭が重かった。
 翌日,O先生がやって来られて「早急に手術をした方
がよいね」と言われた。
手術に際しては病院側に承諾書を提出する。これで自分
が希望して手術を受けたことになり、例え落命しても不
服を申し立てないと言う事らしい。
入院の時も身元引受人署名の承諾書を書かされていた。

手術とその前後
手術日が決まるまでには病院側の綿密な計画の上、医療
スタッフの揃う日が設定される。
私の手術日は当初1月17日であった。
手術に先立ってO先生より説明行われるので親族同伴で来
るように時間が決められた。
医学学会資料として術前よりビデオ撮影をさせて欲しい
との要望があり了承する。
頚椎は前部の骨と中心の髄を植物の根が覆うように神経
が存在し、後ろの骨が蓋のように被さって1〜7番まで
連なっている。
麻酔は全身麻酔。手順はまず左右の骨盤から前頚骨に挟
み込む骨を切り取る。切り取った部分には人工物を挿入
する。次に後頭部より首下まで切り開きスパイラルワイ
ヤーというラーメン状に縮じれた針金を後骨の出っ張り
に輪に絡めて留める。首前面の右左どちらからか(扁桃
腺を避けて)開いて3〜5番頚椎の椎間板を取り除き、
それぞれの磨り減った部分の凹凸を平らにする、接片の
付着物を削り取り骨が付きやすくしてから、骨盤からの
骨を大きさに合わせて挟み込み2〜5番にかけ1枚のチタ
ンプレートを前面からネジで止める。というもので8時
間以上かかる大手術であることが説明された。
術後は3日間ICU(集中治療室)で24時間体制の看護
をするとのこと。

 疑問や心配な事を色々質問する予定だったが衝撃のほ
うが大きく、ただ他人事のように呆然と聞きながら頭の
中が白くなりかけていた。
そうは言っても聞くべきところは訊いておかなくてはな
らぬ。
Q1、チタン合金埋め込みは免疫による拒否反応はない
のだろうか?
A、最初の頃はステンレスだったが、チタンにしてから金
属アレルギーなどの拒否反応はないようです。
Q2、ワイヤーやネジが術後何年か後に切れたり折れたり
したことはないのか?
A、この方法で手術を手がけてから17年経つが70例中
1件だけあった。特別強い衝撃を与えない限り大丈夫だ
が切れたとしても危険なことにはならない。
Q3、骨盤を切り取るのだけれどその後はどの程度回復す
るのだろうか?
 A、人工骨を装入するが、しばらくは傷が痛むと聞く、
しかし長い期間ではない。
Q4、骨が完全に固定するまでにどのくらいの期間がかか
りますか?
A、普通は3ヶ月から半年でだいたい大丈夫。しかし完全
に固定するには1年間は無理し
ないように。
Q5、手術の成功率は?
A、100%に近い99.9%だ。残りの0.1%は判らない。
Q6、回復後首がどの程度左右に動かせるのでしょうか?
A、 君の場合左右30%は狭くなるだろう、上下の動
きはままあだが、上向きや後ろ向きが多少不自由になる。
Q7、固形物が飲み込みにくくならないか?
A、 術後すぐは無理だが、ほとんど問題はない。術
後2日から流動食がはじまる。5日目位には「3部粥」に
なる。
Q8、もし、頭を打ち付けたたり衝撃を受けた時にその
ショックが他の骨に影響が出てくるようなことは?
 A、ショックは出来るだけ少ないに超したことはない。
しかし、今のところほとんど問題にならない。普通の健
常者で再手術した例はあるが、骨が固まってしまえば後は
筋肉や他の骨でショックを吸収している。首や肩のリハ
ビリは術後行うので頑張って欲しい。

凡そこのようなやりとりをしたような記憶がある。

正月明けから風邪をひってしまった。そのため喉が腫れ
てイソジンをもらってうがいを重ねたが一向に良くなら
ず、熱が30度以上の日もあった。
1月14日に予定されていた手術は延期となった。金曜日
が手術日となっている。
手術に先駆けて血液検査を受けた後、予め自分の血液を
保存しておくという貯血をした。
風邪を引いて体力最悪の折なのに400ccも吸引機で血を
抜かれてしまった。こんな状態の血液が良い訳はないだ
ろうが仕方ない。ビニール袋にどす黒い血液が詰められ
て日付、名前や血液型の書かれたシールを貼って冷凍保
存される。

 手術後寝たままで食事をとるのは普通の人でも大変な
ことで、他人の介助が不可欠であると感じた。そこでH
ANDS世田谷の藤村さんに相談して彼女と同じように
地元のボランティアグループを紹介していただいた。全
面的に応援するという心強い約束を戴き、連絡をしても
らった。
病院は一応完全看護のたてまえだが、婦長の認可が貰え
れば介助者の入室が許可になる。
術後の快復期のみ十日程度という条件付きで許可をもら
った。
聴取り不可能な言語障害や機能障害の重い患者には常時
付き添いが特別に認められる。
これは病院側とのコミィニュケーションを取りやすくす
るためでもある。
幸いにも金沢区のボランティア連絡協議会の会長さんと
ボランティアリーダーの方や障害者生活援助センターの
世話人さんなどが病院に来てくれて色々とアドバイスや
経験談を聞くことが出来て大変参考になった。
そして朝食と昼食の食事介助を10日間の予定でお願い
することになった。後日コーディネーターの方にボラン
ティア訪問者のスケジュール表を届けて頂く。
1回の介助ごとに500円の交通費のみ払うという全く
の奉仕活動だった。
(つづく)

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