No.21
4・イギリス・イーストロンドン発:
地上最強ハードロックバンド「レッド・ツェッペリン」のマネジャーはプロレスラーだった
地上最強ハードロックバンド、その名はレッド・ツェッペリン。
1960年代末期から80年代初頭まで、つまり‘70年代を駆け巡り全世界でアルバム2億枚を売ったスーパー・グループ。
彼らの4作目のアルバムにはタイトルがない。
4人のメンバーを暗示させる記号が印刷されているだけだ。
しかしそのアルバムは世界中で飛ぶように売れレコード会社の戦略としてシングル発売されていないにもかかわらず、
アルバムに収録されている名曲「天国への階段」はロックのビンテージとしていまなお不滅の輝きを撒き散らしている。
20年近く前になるか日本のラジオFM局で洋楽の人気投票をおこなったところ、ベスト3は
イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」
デレク・アンド・ドミノス(E.クラプトン参加のグループ)の「いとしのレイラ」
そしてもうひとつがレッド・ツェッペリンの「天国への階段」
という結果だった。
ギタ−:ジミー・ペイジ
べース&メロトロン:ジョン・ポール・ジョーンズ
ドラム&パーカッション:ジョン・ボーナム
ヴォーカル:ロバート・プラント
ツェッペリンの曲というと日本のプロレスファンには故ブルーザー・ブロディの入場テーマ曲「移民の歌」が有名なところだ。
初登場全日本プロレスではコピーのインストゥルメンタルのヴァージョンを使用していたが
新日本に移籍してからはオリジナルのツェッペリンのヴァージョンであるばかりかプレリュードがベートーベンの「運命」で始まる豪華版。
ツェッペリンのヴォーカルであるロバート・プラントの「アアアー、アー、アアアー、アー!」の絶叫と
ブロディが入場してチェーンを振り回しながら叫ぶ「ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!」が相乗効果を成して異様な盛り上がり
(ブロディ亡き現在ではゼロワンに出場しているブロディのコピーたるレスラー、プレデターの入場シーンで疑似体験することができる、
またツェッペリン自体にもコピーバンドは数多く存在していて
筆者はその道で最高峰との誉れもあるコピーバンド「シナモン」の東京におけるライブを何度も観に行っている)。
ほかにも旧ジャパン女子プロレス時代、当時ミス・Aのリングネームだったダイナマイト関西が一時期入場曲として「ロックンロール」を使用。
また最近ではプライドで活躍のブラジルの柔術マジシャン、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラや新日本プロレスのジャィアント・シウバ&シンの大巨人コンビが
ツェッペリンの「カシミール」をモチーフにした曲「カム・ウイズ・ミー」で入場。
この曲はハリウッド版「ゴジラ」において演奏者ジミー・ペイジ・フューチャリング・パフ・ダディの名義で同映画のサウンドトラック盤に収められたものである。
かようにプロレス界でも時々その名が出るツェッペリンだが、彼らの「第5のメンバー」と称される名物マネジャーがこの項の主人公というわけである。
彼は音楽業界のマネジャーになるまで様々な職業を経験したらしいが、一時期プロレスラーをしていたという記述がバンドの本に載っていた。
ツェッペリン第5のメンバーと称される名物マネジャー、彼の名は『ピーター・グラント』。
体重140kgの巨漢、禿頭で髭面の眼光鋭い大男。
「1935年生まれ。家庭的にも恵まれず、戦争で家をなくし、教育もなく、苦労を重ねてきた男だ。
13歳でクロイデン・エンパイア劇場の裏方をし、フリート・ストリートで映画のフィルムの配達をした。
目つきが鋭い大男で、ナイトクラブの用心棒、映画『ガンズ・オブ・ナバロン/ナバロンの要塞』ではエキストラをし、
ロバート・モーリーのスタントマンをつとめ、
プリンス・マリオ・アランオのリング名で、プロレスラーをしていたこともある(以下略)」
月刊プレイボーイ日本版2004年3月号に掲載されたレッド・ツェッペリンの記事では
グラントのもう一つのリングネームが載っていた、「カウント・マッシモ」。
「60年代半ばまでにグラントは、ミッキー・モストの抱えていたグループの一つ、アニマルズについてアメリカに渡り、ツアー・マネジャーとしてのコツも覚えた」
とあるところ、また彼の生年から考えるにグラントがレスラーとして活動していたのは50年代中盤から60年代前半の時期ではないか。
日本ではプロレス黎明期、力道山の時代である。
グラントが特別他国で試合をしたという記述もないことからレスラーとしての活動は母国イギリスに限定されるであろう。
だがそれでも当時日本との交流がなかったヨーロッパマットにおいて
「プリンス・マリオ・アランオ」あるいは「カウント・マッシモ」なるレスラーの試合結果を今回の調査で発見することは出来なかった。
ここで一つの推測を。おそらく彼はカーニバル・レスラーではなかったか。
カーニバル―見世物小屋でのアトラクションとしておこなわれる飛び入り歓迎の賞金マッチ。相手は素人だが何を仕掛けてくるかわからない真剣勝負。
当然カーニバル・レスリングの王者は常勝を義務付けられる。素人でも負けたら賞金を持っていかれるばかりか自分もその日でお払い箱だ。
グラントがカーニバル・レスラーであったとするならば試合結果が残るわけもない。
彼にアマレスの下地があったという記述はないことからその巨体と腕っ節で飛び入りの客を圧倒していったのではないか。
その押しの強さと喧嘩の強さは音楽業界のマネジャーを始めてからも如何なく発揮された。
以下はそのグラントの、武勇伝の数々である。
「あるコンサートのあとで、リトル・リチャードを脅したプロモーターをたたきのめし、さらに、止めに入った六人の警官をのしてしまったという経験もある。」
「グラントはマフィア系のクラブにヤードバーズ(註1)を出演させたこともある。
ロードアイランドのウォーウイックにある遊園地では、こんな事件も起きた。
ヤードバーズのバスが一時間遅れで到着すると、二人のイタリア系プロモーターが、バスに乗り込むなり銃を突きつけ、
皆殺しにしてやるとわめいた。席を立ったグラントは、巨大な腹でこの二人を外に押しやって怒鳴った。
『今、なんか言ったか、てめえら?』このひとことで、事態はおさまり、コンサートは始まった。」
1970年。
「四月六日、テネシー州のメンフィスを訪れたツェッペリンは、名誉市民の称号を受けた。
過去にはプレスリーやカール・パーキンスももらっている。
その夜、ジミーが『コミュニケイション・ブレイクダウン』を弾き始めると、観衆は総立ちになった。
ツェッペリンの演奏がクライマックスに達すると、一万人の若者たちはいっせいにからだを震わせた。
この熱狂ぶりにおそれをなしたプロモーターは、グラントにバンドをステージからおろすように命令した。
グラントはきかなかった。
『ばかいえ!俺は連中をひっこめたりしないぜ』
するとプロモーターは銃を取りだし、グラントの分厚い胸板に突きつけた。
『もしコンサートをやめないなら、ぶっ放すぞ』
グラントは彼の顔を見すえて笑った。
『おまえに俺は射てねえよ。俺たちは名誉市民の称号をもらったばかりなんだぜ』」
「六月二十六日、レッド・ツェッペリンはバス・フェスティバルに出演した。十五万人の聴衆が集まった。
(中略)
すばらしい夕焼けはまもなく、クライマックスを迎えようとしていた。フロックのステージがまだつづいていた。
アンコールも二、三曲やりそうな気配に見えた。
グラントは迷わなかった。コール(註2)に命じて、フロックのステージの電源を切って、彼らの演奏を強引にやめさせた。
それからつかつかと舞台に上がっていくと、驚くフロックを無視して、レッド・ツェッペリンのために準備を始めた。
フロックのスタッフが抗議すると、コールがパンチをくらわした。グラントもいくつかパンチをおみまいし、
ツェッペリンをステージに登場させた。」
「ツェッペリンの演奏中、グラントは観客席に、ビデオ・カメラを持ち込んでいる男を見つけた。
彼はその男を舞台裏にひきずりこんだ。コールがカメラに水をぶちまけた。」
1971年日本公演。
「今度の生けにえゲームのターゲットは、ジミーだった。
午前三時、ジミーは眠っていた。ジョン・ポールとロバートは、ジミーのベッドのカーテンを開けた。
ボンゾが冷めたお茶と気の抜けた酒とごはんを混ぜた、ぬるぬるした汚物を投げこんだ。
だが、彼らはまちがえて、グラントのベッドを襲った。
華奢なジミーではなく、百三十五キロの巨体が怒り狂って、怒鳴りちらした。
彼は逃げる三人を追いかけた。ジョン・ポールがつかまって、耳をなぐりつけられた。ロバートもパンチを浴びた。
そこへコールが何事かと起きてきた。グラントはこのいたずらをしかけたのは、彼だと思い込んで、コールにもなぐりかかった。
しかしコールはひょいと身をかわしたので、コールのうしろにいたボンゾをなぐってしまった。ボンゾの鼻から、血がふきだした。
グラントはコールに向かって、クビだとわめいた。すごい騒ぎだ。
このグループの面倒をみていた日本人は、すさまじい光景を、絶望的におびえながら見ていた。
てっきりレッド・ツェッペリンは解散すると思った。
フィル・カーソンは震え上がった日本人にこんなことは日常茶飯事だと説明した。」
1975年。
「ロサンゼルスに着くと、彼らはまっすぐレインボー・バーを目指した。
(中略)
レッド・ツェッペリンはけばけばしく着飾ったグルーピーたちと、我物顔にはしゃぎまわった。
その傍若無人ぶりはどんどんエスカレートしていった。
それを快く思わない酔っ払いが、ツェッペリンのたむろしているところへ千鳥足でやってくると、ジミーに向かって怒鳴った。
『てめえなんか、まともにギターも弾けねえくせによ。くそったれ』
ジミーはその男をぶんなぐろうと立ち上がった。すかさずグラントがジミーを抑えて、傷ついた手のことを、思い出させた。
酔っ払いはまだわめきつづけた。ついにグラントが立ち上がると、酔っ払いを外へ引きずり出した。
まず、キックをくらわしておいて、なぐりつけようとした時、若いやせた男が近づき、にこやかに言った。
『グラントさん、あなたのサインをいただけませんか』
グラントの制裁は途中で終わった。」
1976年。
「ピーター・グラントとビル・グラハム(註4)は、もう十年もこぜりあいをつづけていたが、
ついに七月二十三日、オークランドのコンサート初日、事件は起こった。
ツアーに時々ついてまわっていたピーター・グラントの息子ウォーレンは、
更衣室として使っていたハウストレーラーのドアに書かれたレッド・ツェッペリン手書きのサインを見て、
そのサインをもらえるかとグラハムの用心棒に尋ねた。
そこにいたリチャード・コールによると、その用心棒は、ウォーレンを乱暴に突き放したというのだ。
そのとき、ステージをおりていたボンゾは、この様子を見て、男を罵倒し、足蹴にした。
息子がけがをさせられたと聞いてやってきたピーター・グラント、
そしてジョン・ビンドンの二人は、男をトレーラーの中に押しこみ、なぐる蹴るの暴行を加えたのだという。
グラハムの用心棒が仲間を助けようとトレーラーに入ろうとするのを、コールは荒っぽく追い返した。
グラハムの連中が中に入った時には、そこは血の海で、男は気を失っていた。
翌日、次の公演地、ニュー・オリンズへ向かう準備をしていたとき、
コールは、警察がビルを包囲しているのに気がついた。(中略)
コール、ボンゾ、ピーター・グラント、そしてジョン・ビンドンは逮捕された。
七月二十五日、全員が暴行罪に問われ、一人二百五十ドルの保釈金が課せられた。
暴行を受けた男が、民事裁判に提示した慰謝料の額は、二百万ドルにものぼった。」
喧嘩のシーンの描写だけの羅列では誤解を受けそうだが、彼がバンドの成功のために尽力したということは間違いない。
レッド・ツェッペリンが最も成功したバンドの一つに挙げられる理由に、
自分たちの手許に相当量の財産を残したということがあげられるだろう。
その裏でマネジャーのグラントが活躍していたのはいうまでもない。
「彼らのマネージャーだったピーター・グラントは音楽業界のルールを根本から変えてしまった。」
「彼のやり方は、その後のコンサート・ビジネスを永遠に変えてしまう。
バンドが入場総収入の90パーセントを手に出来る、という契約を持ち出したのだ。
プロモーターはそれを呑むかあきらめるかのどちらかだった。もちろん、彼らはそれを呑んだ。」
その彼もすでに「天国への階段」へと旅立っていった。持病の心臓発作と記憶している。
(2004・0229)
参考:HAMMER OF THE GODS The Led Zeppelin Saga
「レッド・ツェッペリン物語」スティーブン・デイヴィス 1986年CBSソニー出版
PLAYBOY日本版2004年3月号 集英社
(註1)レッド・ツェッペリン結成以前にペイジが参加していたバンド。
同時期ではないがエリック・クラプトン、ジェフ・ベックそしてペイジと、俗に言う「三大ギタリスト」が全員参加していた。
(註2)リチャード・コール。レッド・ツェッペリンのロード・マネジャー。負けず劣らずの腕っ節だったらしい。故人。
(註3)バンドのドラマー、ジョン・ボーナムの愛称。
(註4)アメリカの大物プロモーター。
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