No.165
3人のジャック・デンプシー、プラスアルファ

1.ロビンソン自伝に登場する人物

2004年10月にビル・ロビンソンの自伝「人間風車」を購入して読んだ。
イギリス出身の「人間風車」ビル・ロビンソンといえば、
日米欧州諸国は言うにおよばず南米からインド、
あのネパールなど世界各国に遠征した世界屈指のテクニシャンである。
「ロビンソン」という活字を見るだけで筆者などはすぐさまあの75年蔵前での猪木戦の
1本目の長いながーいヘッドシザースやネックロックや逆エビ固めの攻防が
まるで条件反射のように脳裏に甦ってしまう次第(テレビ観戦でしたが)。
そのロビンソンが自らの半生を振り返っての自伝は
少なくとも本のボリュームの前半部については、
自分がメインエベンターとしてどこそこのどんな相手と戦ったという話よりも
まだ若かった、10代そこそこでイギリスのウィガンでビリー・ライレーのレスリング・ジムに入門して
自分がどういう経過を経て実力レスラーに成長していったかという部分に趣きを置いている内容である。
ロビンソンはライレーのジムに入門する前にマンチェスターのYMCAのレスリング・ジムで3ヶ月みっちり練習していたのだが
初日のライレーのジムでの練習のスパーリングで若きロビンソンは自分より大分小さい相手に一方的にやられてしまうこととなる。
その初日の相手は、「ジャック・デンプシー」という名のレスラーだったそうだ。

ジムへ行くと、早速着替えさせられ、いきなりスパーリングを命じられた。
相手をしてくれたのはジャック・デンプシーという選手だった。
身長は私(註:ロビンソン)よりもずいぶん低く、
体重も165ポンド(約75キロ)くらい、ウェルター級のレスラーであった。
たった3ヶ月の経験ではあったが、自分なりに多少自身をつけ、
まだレスリングのなんたるかも知らない私は
「体も自分のほうが大きいし、なんとかなるだろう」
と、そんな思いでマットに上がった。
ライレーの「はじめ!」の合図でスパーリングが始まった。
その後は・・・・・
30秒ごとにピンフォール、サブミッション、ピンフォール、サブミッションの連続で、
ただ一方的にやられまくっていただけだった。
それはYMCAでのレスリングとはまったく違う、
それこそ自分の身に何が起こっているのかさえもまったくわからない異質のレスリングであった。
私はもう完全なパニック状態だった。
(中略)
今度は相手のデンプシーがレスリングのディフェンス・ポジション
(アマレスでいうパーテレ・ポジション)を取ってくれて、そこから私がクロスフィックス・ホールドで攻めた。
しかし、YMCAではそれなりに自信があった得意技も、何度トライしても仰向けにひっくり返されるばかりであった。
もう、お手上げだった。少なからずあった自信・・・・・、
もちろんたった3ヶ月で自信を持っていたことすら勘違いだったのだが、そんなものは木っ端微塵に吹き飛ばされた。
スパーリングが終わった後も、頭の中は真っ白だった。
(前掲書P21〜24)

私が入門した当時のライレー・ジムは主宰者であるコーチのビリー・ライレーをはじめ、
その息子のアーニー・ライレー、ビリー・ジョイス、ジャック・デンプシー、ジョン・ウォリー、
ジョー・ロビンソン(ビリー・ジョイスの兄)といったところが中心メンバーとして練習が行われていた。
10代のメンバーは、この時に入門を許された私だけだった。
(前掲書P32)

コクサイ(註:国際プロレス)参戦時代のスパーリングで、私はもうゴッチ(註:カール・ゴッチ)に負けることはないと確信したが、
ウィガン時代にゴッチとビリー・ジョイスのスパーリングを一度見たときなど、ゴッチはジョイスの足に触ることさえできなかった。
ジョイスだけではない、デンプシー、フォーリーといったゴッチより軽量のレスラーもゴッチを極めていたのだ。
(前掲書P120)

ロビンソンの自伝には台に座した状態でバーベルを上げるトレーニングをしているJ.デンプシーの写真が掲載されている。
ロビンソンの生年(1938年)から計算するとロビンソンがライレー・ジムに入門したのが彼が15歳の頃なので1953年。
デンプシーはこの時期に活躍した選手なのだろう。日本では相撲から転向した力道山がアメリカにおけるプロレス修行から帰国したぐらいの時期である。
もう一枚、タイツ姿でベルトを巻いているようなデンプシーを中心にして私服姿のビリー・ライレー、ビリー・ジョイスが彼を囲んでいる集合写真も掲載されていた。
しかし修業時代であったとしてもゴッチが75キロ前後のレスラーに極められていたというのはそれだけで驚きだ。
当時のイギリスのレスリングのレベルの高さが伺える。
しかし・・・軽量級だったということもありデンプシーがアメリカンスタイルを導入した当時の日本に遠征することは叶わなかったであろう。
幻の実力者、ジャック・デンプシー。


2.マナッサの巨人殺し

普通に「ジャック・デンプシー」の名を挙げれば1920年代のアメリカ・プロボクシング界で活躍した元世界ヘビー級王者を指すだろう。
そればかりか彼はアメリカスポーツ史上に残るヒーローであるということだ。
1895年コロラド州マナッサの出身。本名ウィリアム・ハリソン・デンプシー。
ボクサーになる前の10代の頃は炭鉱夫の仕事をしていた
(面白い符合だ、レスラーのJ.デンプシーが所属していたB.ライレー・ジムのあったウィガンも炭鉱の町である)。
その後放浪の旅に出た彼は腕っ節の強さからボクサーの道へ。
ノックアウトの多さは目を引くがなかなかチャンスが与えられなかった。
しかしチャンスは訪れた。
1915年4月、史上初の黒人世界ヘビー級王者だったジャック・ジョンソンをハバナで26ラウンドに破って
白人のもとに王座を取り返した身長196センチの巨漢ジェス・ウィラードへの挑戦が決定(1919年7月4日オハイオ州のトレド)し、
対格差もあって下馬評では不利だった挑戦者デンプシーはしかしこの巨人王者を第1ラウンドで6度もダウンさせてしまう。
最後は4ラウンド開始にウィラードは応じず、デンプシーが新王者になる。
この試合の映像は日本テレビで20年以上前か、土曜か日曜の午後ヘビー級の世界王者の映像が一挙放送された特別番組で見たが、
小さくみえるデンプシーが何度も何度も巨漢王者を殴り倒すシーンは強烈だった。
デンプシーはその後21年7月、3度目の防衛戦で売り上げが史上初の100万ドルを超えた
「蘭の男」フランスのジョルジュ・カルパンティエ戦(4RKO勝ち)、
23年9月の、初回7度のダウンを奪ったものの、2回に反撃されて場外に真っ逆さまに転落しながら
新聞記者らに押し上げられてリングに帰還、逆転KO勝ちを収めたルイス・フィルポ戦、
王座転落後の再戦、ジーン・タニーを7回ダウンさせるが有名な「ロング・カウント事件」
(当時の新ルールで、相手のダウン中はニュートラルコーナーで待機しなければならなかったのを
デンプシーがコーナーに行くのにもたついたためレフェリーのカウントが4〜7秒遅れ、王者タニーがKOを免れた)
で逆転の判定負けを喫するなど話題の多い試合を提供した。
なおプロレスラーとのミックストマッチの経験もあるという説もありまた引退後はプロレスの試合のレフェリーなども数多く経験しているらしい。
平成に入って日本のプロレス団体ゼロワンに「デンプシーの曾孫」という選手が出場したが血縁の真偽は不明。


3.「ノンパレル」

ジャック・デンプシーには初代が存在した。
プロボクシング世界ミドル級初代王者の名前は「ノンパレル・ジャック・デンプシー」。
1883年アイルランド出身。
「ノンパレル」は「比類なき」とか「無双」とかいう意味。
ヘビー級のJ.デンプシーが尊敬のあまり名前を借用したという選手。
この、あたかも強豪の2代目襲名とでもいえそうな「リングネームの借用」はこの古き良き時代には多く見られ
プロボクシング世界ヘビー級王者のジョー・ウォルコットにも、
初代ウォルコットたる元世界ウエルター級王者の「バルバドス島の悪魔」が存在したし、
ステッカー、ズビスコと1920年代の三強時代を彩ったエド「ストラングラー」ルイスも本名はロバート・フレデリックであり、
フランク・ゴッチの師匠であったファーマー・バーンズのライバルだった初代(イワン)「ストラングラー」ルイスから受け継いだものだという。
これ以上追求すると大相撲の四股名の話になりそうなので「ノンパレル」に戻すと、
彼は1884年に王座を獲得、
1887年ロングアイランドでジョニー・リーガンを45ラウンドKOに仕留めて4度目の防衛に成功した試合は
川沿いのはしけの上のリングで試合をしていたところ浸水で試合が出来なくなり
川上20マイルに移動して再開したという珍エピソード。
生涯成績は50勝(26KO)3敗8分3NC、本名はジョン・ケリー。
ん?本名はデンプシーではないんだな・・・。
2代目ヘビー級王者は本名がデンプシーなのでジャックを名乗るのは理解できるが
初代ノンパレルの本名がデンプシーではなかったとすると、
そもそもの「ジャック・デンプシー」の由来はまた別の理由が存在するのだろうか。
またノンパレルのスコアには対戦相手として「マイク・デンプシー」の名が2度記録されている
(1884年ノンパレルの7RKO勝ち、1889年ノンパレルの4RKO勝ち)。
デンプシー対デンプシーも実現していた・・・。


4.プラスアルファ

また、ジャック デンプシーという名前の生物が存在するのをご存知か。
泳ぐ宝石、観賞用熱帯魚のシクリッドという種類の中に「ジャック デンプシー」(学名Cichlasoma Biocellatus)という「種」がいる。

「ジャック デンプシーという有名なアメリカのボクサーがいる。
ところがシクリッドのなかにもおなじ名の魚がいる。
その魚は闘争性がひじょうに強いので、ボクサーの名をそのままあたえられたのである。
彼らは、他の種類の魚や生殖期でないメスを同じ水槽に入れると、
相手をいじめ殺してしまうほどの凶暴性を発揮する。
成熟したオスは20cmほどになり、濃いかっ色から黒色の地に明るい青と黄色の斑点をちりばめている (後略、「」内アニマルライフ第66号より)」
筆者には発見者や研究者以外の人名がつけられた生物の種は他には「ナポレオン・フィッシュ」ぐらいしか思い浮かばない。
しかもスポーツ選手、格闘技者の名前がつけられた生物である。
魚のデンプシーの闘争性と、2代目ヘビー級王者のおそらくウィラード戦「トレドの惨劇」で発揮されたキル・インスティンクトが
イメージとして重なり合った結果であろう。
2代目デンプシーのファイトはそれほどまでに強烈な印象を多くの人にあたえたということか。


↑これが「ジャック デンプシー」
写真:AQUASHOP GUAPOTEより

(2004.1120)

追記:那嵯 涼介氏のGスピリッツVol.08「Uの源流を探る カール・ゴッチとキャッチ・アズ・キャッチ・キャン」によると
ウイガンのジャック・デンプシー(2007年11月87歳で死去したそう)は本名トミー・ムーア。
1937年に17歳でプロボクシング世界ヘビー級王者からリングネームを拝借してプロデビューしたそう。
ということは3.の「ノンパレル」ジョン・ケリーが初代?デンプシーで
世界ヘビー級王者ウィリアム・ハリソン・デンプシーからウイガンのトミー・ムーアへと
ジャック・デンプシーというリングネームが伝播して行ったということになる。
(08.1025)

参考:人間風車 ビル・ロビンソン自伝 2004年エンターブレイン社
世界名ボクサー究極の100人 1988年日本スポーツ出版社
「プロレスオール強豪名鑑世界編」田鶴浜弘 有峰書店新社、昭和61年
アニマルライフ 週刊動物の大世界百科第66号 日本メール・オーダー社
GスピリッツVol.08「Uの源流を探る カール・ゴッチとキャッチ・アズ・キャッチ・キャン 前編」那嵯 涼介 2008年辰巳出版

レスラーズ/ファイターズに戻る
SAMEDASU扉に戻る

web拍手 by FC2