No.143
昭和46年6月、謎のインド人レスラーがG.馬場に挑戦表明
演撃カフェでも紹介したゴング昭和46年8月号に掲載された「インドの怪チーム現る!」の記事。
↑月刊ゴング昭和46年8月号より。
「さる6月11日に正体不明のインド・レスラー、アジェット・シン、ナランジャン・シンの二人が突如、来日して
13日の午後6時から東京・渋谷の奉信ホテルで記者会見を行い
『誰でもいいから日本の選手と戦いたい!』と発表した。
自称ダラ・シンの弟と称するアジェットは『できれば馬場と戦いたい』と豪語していた。」(モノクログラビアより)
そしてインドの民族衣装を着た二人の写真とそれぞれのタイツ姿の写真が。
タイツ姿の写真の説明では
「ボストン・クラブが得意という蛇男ナランジャン・シン」
「12年のキャリアを持ち飛蹴りを使うアジェット・シン」
とある。
インドのレスラーで飛び蹴りが得意というのはちょっとピンと来ないなあ・・・。
「ダラ・シンの弟と名乗るアジェット・シンが馬場に挑戦!」(記事ページより)
シンガポールで最近まで試合をしていてその足でフラリと日本に立ち寄ったそう。
このあとは九月から英国で試合が組まれているとのこと。
以下アジェット・シンとのインタビューから抜粋。
「ババのことはよく知っている。
かれが一昨年シンガポールへきて(註1)、ガイワールド・スタジアムで試合をやっていたときの評判を聞いて、
一度戦いたいと思っていたんだ」
「なにしろババの名を知らないものはいない。
インドは今不景気だが、ババがインドへ来て試合をやるといえば超満員になるだろう」
「わたしは十六歳でプロレスラーになったが・・・
昔たしか一九五六年だったと思うが、
シンガポールで日本のリキドザンとアズマフジがきてキング・コング、タイガー・ジョキンダーと試合をやったのを覚えている・・・
一度、日本のレスラーと戦ってみたいというのがわたしの夢だった」
「わたしはシン兄弟の一番末っ子・・・本当の弟なんだ。
男の子4人の一番下だ。
ダラ・シンやサーダラ・シンからリキドザンやババのことはよく聞かされていた。
ダラは二人と戦っていたからね。
だからなおのことババのテレビジョンをみたときは戦いたくなったもんだ」
「インドのプロレス興行界は不景気だ。
独立した興行は無理だろう。
だがプロレスを教える道場はある。
みんなそこで学んで外国へ戦いにでる、われわれのように・・・」
(あなたはいま何かタイトルを持っているのか?の問いに)
「インドのヘビー級チャンピオンだ。
これはヨーロッパでも通用するタイトルである。
こっちのナランジャンはわたしのパートナーだが、タッグで一度、ヨーロッパ・タッグ・タイトルをとったことがある」
(得意技は?の問いに)
「ボストンクラブ、フライングキック・・・インディアンデスロック。
インド式のストロング・スタイルでもいいし、アメリカン・スタイルのラフ・プレーでも勝負できる。
最近はシンガポールで荒っぽく暴れていたよ・・・ハッハッハ」
(世界タイトルを狙ったことは?の問いに)
「東南アジアにいたんでは、なかなかチャンスがない。
一九六四年の秋・・・ヨーロッパに遠征したときにルー・テーズの世界タイトルにロンドンで挑戦したことがある。
結果はドローだった(註2)」
馬場・イン・インド!も楽しそうだが。
結局彼ら二人は日本プロレスのマットには上がらずに帰国したようだ。
インド・パキスタンと日本マットの接点を考えると力道山時代の昭和30年、アジア選手権大会に来日した名選手のダラ・シン。
昭和42年6月の日本プロレスゴールデンシリーズ後半戦に出場したダラ・シン(別人)、サー・ダラ・シンの兄弟コンビ。
そして戦慄の「腕折り事件」で有名な昭和51年12月12日パキスタン・カラチナショナルスタジアムでのアントニオ猪木対アクラム・ペールワン戦、その後の新日本の2度のパキスタン遠征。
このような数えるほどの事例しかない。
レスラ−招聘がアメリカマットからの一辺倒だった当時の日本プロレスでは難しい状況にあったかも知れないが、
アメリカン・レスラー以外の毛色の変わった選手をリングに上げてみよう、インドのレスリングの技を観客に見せてみたいなどという実験的な発想には結びつかなかったものか。
ただしアジェットらが多大な観客動員に直接結びつくかどうかといわれれば疑問なのは間違いないところだが。
記事の最後に「気の毒だが、また時期を改めて挑戦してもらいましょう」とにべもない返事をしているのは
当時の日本プロレス渉外担当重役の遠藤幸吉さんでした。
(2004.0410)
追記1:インタビューの中では力道山、キング・コングと対戦した初代ダラ・シンは俳優に転向したとの記述もあった。
(2004.0515)
追記2:その後の調査でこの二人、いったん帰国した後昭和46年9月7日〜10月3日に開催された国際プロレス「ダイナマイト・シリーズ」に参加していたことが判明。
だが試合では非力なミスター珍とタッグマッチでフォールしたりされたりという水準で、とても馬場の相手が務まる選手ではなかった模様。
やはり彼らを日本プロレスのリングに上げなかった遠藤さんは正しかったのかも知れない。
(2004.0808)
引用、参考:ゴング昭和46年8月号、ザ・レスラー ベスト100 いずれも日本スポーツ出版社
(註1)1969年の日本プロレス東南アジア遠征。バンコク、シンガポール、香港などで試合。
(註2)ロンドンでのテーズとの対戦、確認はしていないが事実ではないと思う。
タッグながらミスター珍と勝ち負けの選手がテーズと引き分けるとは思えませんなあ、珍氏には申し訳ない表現ですみませんが。
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