No.258
日本プロレス/知られざるアジア異種格闘技戦
今は崩壊した日本プロレスが近隣の東南アジアなどでの興行を行った時の、地元の格闘技者に挑戦された話。試合時間、ルールなどは不明。
1.From沖縄・小島泰弘(H.マツダ)対地元空手家&米国人
力道山率いる日本プロレスの昭和32年の沖縄訪問試合初日で実現。
沖縄は当時アメリカ占領下。
この大会のメイン外国人は「怪力男」アデリアン・パイラージョン。
初日は1月12日(註1)、那覇市美栄橋(みえばし)広場特設リング、観衆約2万、と資料にはある。
プロレスの試合は7試合、それとは別に「飛び入り歓迎」に応じて米国人(米軍関係?)、地元の空手家が名乗りを挙げる。
力道山は飛び入り迎撃に入門8ヶ月、デビュー戦前の若手・小島泰弘を起用。
小島は横浜出身、野球、空手の経験者ではあったがなにせまだデビュー前である。
小島はまず米国人ポール・ケーモースを3分でフォール。
続いて登場は地元具志川村出身の、沖縄空手三段と称する奥間政文。
「立技では、得意の空手に、小島をよせつけなかったが、
寝技にまきこまれては、とても及ばず、
奮斗空しく、六分余でフォールされてしまった(註2)」
空手の打撃で牽制する奥間青年を、小島は倒して寝技に誘いピンフォールしたようだ。
小島の正式デビューは同年1月25日の吉田川戦(ドロー)。
のち力道山との意見の相違から日本プロレスを脱退して単身ペルーに渡り、そこからアメリカに進出。
ヒロ・マツダとしてNWA世界ジュニア・ヘビー級選手権を獲得。
黎明期のメジャーリーガーの、若き日の武勇伝となったか。
2.From台湾・芳の里対地元拳法家
同じく昭和32年11月の台湾遠征(6日間興行、三軍球場、観客数連日1万人超)。
遠征興行のメイン外国人はビル・サベージ。
要約すると、台湾の新聞記者を通して地元の拳法家が力道山に文書で挑戦。
力道山は対戦相手に芳の里を指名。
怪我や死亡しても、お互いに保障しないという条件で合意。
次の日に、新聞記者とともにホテルに来るはずの拳法家はデスマッチルールに臆したか現れず。
それで「別の人が来た」(?)。
挑戦した人物とは別の拳法家が登場して、試合は行なわれたようだ。
芳の里は拳法家の目突きを警戒。
「(二本指を示して)あの突き指でやられたらケンノンだと、警戒したが、
いいかげん撲らせておいて両足奪って、
ふり廻してやったら唐手の先生目を廻してしまったよ」
以上はプロボク誌に載っていた芳の里の談話である。
本当ならどうやら異種格闘技戦で大技ジャイアント・スイングが爆発した様子(笑)。
この緊張の舞台でジャイアント・スイングをやってのけた芳の里の胆力もなかなかのものか。
なお同プロボク誌上の芳の里、吉村道明、長沢日一の座談会ではこの台湾遠征で吉村の対飛び入り戦もあった様子(詳細不明)。
3.Fromタイ・大木金太郎対ムエタイ(未遂)
力道山死去後の昭和44年7月の東南アジア遠征。
遠征興行のメイン外国人は覆面のミスター・]とニュージーランドのスティーブ・リッカード。
ゴング昭和44年9月号掲載の「G馬場が明かす東南アジア遠征秘話」(註3)に、
大木金太郎がタイの格闘技ムエタイ(タイ式ボクシング)と絡む一件が記されている。
「八日は昼から市内の大黒屋という日本のテンプラ料亭で昼食会。
タイの記者の人たちと会談する。
ここである記者が、タイにはタイ式ボクシングという格闘技があるが、
もし挑戦されたらと鋭い質問をあびせてきた。
我々世界をまわるとよくこういう挑戦者にあう。
金ちゃん(註:大木)が固くなって
『我々はタイ式ボクシングだろうが何だろうが、
相手が挑戦してくれば受ける。
それだけ体は鍛えている。
両方のルールでKOするまでやってもいい』
とぶっそうなことをいっておどろかせた。
タイ式ボクシングの主任レフェリーでプロレス解説者のチャイさんという人がいて
『プロレスとキックは両立する』
と一席キック・ボクシング、プロレスの比較論をぶってくれて坐は和やかなものになったが・・・・・・・
あぶなくタイ式ボクシングとプロレスの決闘が実現するところであった」
と馬場はひと安心(笑)。大木対ムエタイは未遂に終わった。
しかし実現していたらどうなっていただろう。
「両方のルールで」という部分が大変気になる。
大木の得意技ヘッドバットは許されるのだろうか。
ロープ際ブレイクの時、ヘッドバットを仕掛ける大木。
怒ったムエタイ選手が回転してのヒジ打ち。
両者頭部から流血してエキサイト、止めに入る関係者、大混乱のリング上・・・。
テキサスで行なわれたルー・テーズ対大木、
あるいはブラジル・リオデジャネイロで実現したW.ルスカ対I.ゴメス戦のような凄惨な結末が待っているような気がしてならない。
実現しないでよかったかも知れない、日本プロレス・アジア異種格闘技戦・・・。
(2006.0205)
註1:12日、13日、14日の3日間興行。
註2:引用、プロレス&ボクシング 昭和32年
註3:筆者 ジャイアント馬場 とあり、日記調の文章である。
参考:
プロレス&ボクシング 昭和32年
プロレス 昭和50年11月号 昭和51年1月号 いずれもベースボールマガジン社
ゴング 昭和44年9月号 日本スポーツ出版社
プロレスRING RECORD’79 森屋了一
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