No.263
人間対猛獣9.大山倍達対猛牛・雷電号、
1956年11月11日 田園コロシアム


さていよいよ極真空手創始者「ゴッドハンド」大山倍達の、対猛牛戦が登場。
プロレス アンド ボクシング誌に掲載されていた大和武男氏の文章その他から紹介。
1956(昭和31)年11月11日 田園コロシアム、KRテレビ(後のTBS)が放送。
空手の前座試合3組が終わってから黒牛「雷電号」が太刀持ち、露払いよろしく2頭の黒和牛を従えて登場。

「ついで大山七段の登場。
マントのようなグリーンのケープをまとい、頭髪は乱れを止めてキリリと鉢巻き。
古代ギリシャの格闘師(ママ)がつけたような皮ひもを、脛にグルグル巻いた靴。
なかなかに颯爽とした軽快ないで立ち。
サッとケープをぬぐと、隆々とした筋肉の胸板、肩の肉が盛り上がる。(中略)
両の手の拳はタコがもり上がって“サザエ”といった形容がぴったり。
力道山の拳も物凄いが、この大山のはそれよりも数等凄い」

「“サァ来い”と、決戦場の木柵二十米四方の、牛の入り口正面に両の手を上げて待ち構える大山の気魄は、
スタンドの観客の手に汗を握らせ、唾をのみこませる。
牛も一瞬この闘志に押されたか、入り口で立ち止った。(ママ)
勢子に押されて歩を踏み出す。
ジーッと牛の動きを見つめる大山。動かぬ牛。
大山が進んで出る。サッと身体を横に開いて、二つの手が巨大な牛の二つの角を捉えた」

「渾身の力、金剛力をふり絞って首をねじる。
牛はこらえて振りきろうとするが、離したら最後と、大山はグッとねじりあげる力を加えた。
牛はたまらずドウッと倒れた。
ねじ切らんばかりの大山の力に、さしもの巨牛ももう全く動けない。
マイクが『これ以上しめると牛は絶命しますので中止します』と叫ぶ。
拳で角を叩き折ろうとする大山は無念の態。
立上がった牛に、さればと大山が再度手をかける。
牛はただこらえようとするだけだが、自由を失ってまたもドウッと横転、
首をねじあげる大山の怪力に力尽きて動けなくなった。
大山の勝利、牛はなすところもなく敗れた」

「動物愛護の軽犯罪法から『人の面前で動物を虐待する者は・・・・・』が発動されるおそれから中止となった。
ついに“空手対角”の勝負は見られなかった。
この間九分五十秒。大山堂々の勝利は、いわば軽犯罪法を発動しようとする警視庁ストップのTKO勝ちとでもいうところ。
『私としては角を叩き折りたかったのですが、法の掟(おきて)から出来なくて・・・・・』
とマイクを取った大山が無念の言葉を吐く。
しかし観衆はその場合がなくとも、ねじ伏せたその怪力に唖然としたのだろう満足しきって拍手を送った」



写真、カッコ内はプロレス アンド ボクシング誌より引用。
大山の公開牛殺しは軽犯罪法(動物愛護)を発動しようとする警視庁からストップがかかり、
どうやら一発の打撃を打ち込むことも出来ずに無念の力比べに終始したよう。
「猛牛との対決まで 大山七段に聞く」と題された同誌のインタビュー。

「(千葉県で牛とやったのは、の質問に)
(昭和)二十九年の十一月七日です。
映画の撮影のために、無償で牛を相手にやった。
二十八年に行って牛とやってみて、九月から十一、十二と四ヶ月間稽古して、その間に五十匹の牛とやってみたんです」
「百二十貫でした。この間の牛より小さい。
角は太くて短かった。“牛と戦う空手”って、映画で十巻ものです。
二十分ぐらい」

「ああいう周囲の状況から、―試合当日集ったファンに応えるだけの演出というものは、
自分ではもちろん考えてた。それが当日の状況というものが、計算と違ってたわけですよ。
ああいう牛の状態―しかしあそこで私どもがやることを拒否しますと、
五百万円の損害賠償をとられるという契約で公正証書まで、できておった」

「まあ生活ということ考えたら、プロレスでもやった方が、金も入るし楽ですけど、
やっぱり大山というものから空手をとったら何にもならない」

「今度大阪なりでやるときは、ああいう闘牛士みたいなかっこうはしない。
あくまでも空手のあれとして、はだかでいいんだから―。
ガウンは着て出ていいけれどもね。
それでショウに持っていって、一つ、三十分か二十分観衆を楽しませてからと思っている。
今度はできますよ。それで二月か、遅くとも来年の三月にはやりたい。
この前の牛は百五十貫ですが、あれでは駄目だから、やっぱり百八十貫くらいある、
人間がほんとうに小さく見えるような、そして角が一尺五寸もあるというやつ、
観衆が見るからに腰抜かしてしまうような、そういう牛と二十分くらい抗争してみたいんですよ」

意外とプロ意識を感じさせる発言の数々に少々驚き。
「大阪なりでやるときは」というのはこの後大阪か九州でもう一度猛牛戦をやる計画があったらしい事を示唆している。
契約や動物愛護法など舞台裏はいろいろ複雑だったようだ。
しかし国内ではプロレスに出場しないで空手を続けてよかったでしょう。
極真という団体も創設できたし、
孫弟子にあたる人物がK-1を始めたわけですから。


(2006.0212)
参考:プロレス アンド ボクシング 昭和33年 ベースボールマガジン社

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