No.177
人間対猛獣6・虎対日本人空手家、1977年7月30日岐阜市民センター


2004年末に発売された格闘技雑誌「格闘伝説Vol.4」に衝撃の記事が。
28年近く前の1977年(註1)、岐阜市民センターで行われたプロ空手の興行において
本物の虎と日本人空手家の対戦が行われていた、という。

プロレスラーと虎の対戦の記録についての文章は
ダニー・ホッジが返上したNWA世界ジュニアヘビー級選手権の決定戦に出場したことがあり(76年9月)、
またWWWFタッグ・チャンピオンの実績もある「アイリッシュ」パット・バレットが自らアメリカのマスコミに
「虎と対戦したことがある」と売り込んだという記述がゴング誌に記載されていたことがある。
すでに対戦済みで本人が証拠の写真を持っているということだったがゴング誌にその後の続報はなし。

また同年昭和52(1977)年1月には“呼び屋”康芳夫氏が企画した「虎対人間」の死闘ショーを
この年2月5日、南米ハイチ(註2)のサッカースタジアムで行うと発表。
この時ベンガル産の虎と対戦する予定になっていたのは北九州八幡西区の空手家山元守氏、当時38歳。
当日の対戦は通信衛星を使ってのテレビ中継の計画、
あるいフィルム撮影されて劇場用映画として売り込む予定もあったとか。
ところがこの対戦、実現寸前でスイスの世界動物保護協会からクレームがついて実現しなかった。
世界動物保護協会に関係する女優のブリジット・バルドーが、当時の米大統領カーターにアピールして大反対したとも(註3)。
またこの件と同様かは確認していないがこの時期、
棒の先に分銅をつけたような武器を持って虎と対戦すると声明した空手家の新聞記事を読んだ記憶がある
(しかし武器を持って対戦したら空手じゃないだろうとも思うが)。

上記の例は確認が取れなかったり実現しなかった事例だが、岐阜の対戦は本当に実現していた模様。
記事によると興行の主催は「国際プロ空手プロモーション」。
3千人入る会場に観客は20人前後だったそう(註4)。
虎と対戦する選手は空手五段、聖道会の聖道竜二とある。
そして記載された当時のパンフレットには右拳で顔を隠した聖道選手の写真が。

「聖道竜二」・・・この名前の付け方はおそらく「沢村忠」方式ではないか。
日本におけるキックボクシング創成期の大スター、沢村忠は初試合の時、
チケットやパンフなどの印刷の締め切りの都合か
誰がどんな選手が出場して来てもいいように仮のリングネームで「沢村忠」として発表されていたらしい。
或いは別の説として、予定されていた「沢村忠」が都合により出場できなくなり、
代わりに出場したのが日大空手部出身の白羽秀樹という選手で
首尾よく勝利したためにそのまま白羽秀樹(のち実際の沢村選手)が
「沢村忠」というリングネームで通したという説、情報元は忘れたが読んだ記憶がある。
この日の聖道選手、パンフの写真の選手とリングに上がって虎と対戦した人物が同一人物かどうかまでは知る由もないし
あくまでも推測の話だが、一目見て流派を代表するようなリングネームとわかる名前、
手で顔を隠した写真などから、人物像をぼやかすような主催者側の動きが見て取れるためそう考えたのだが。

さて岐阜の注目の対戦だがプロ空手の試合9試合が終了した後に行われたそう。
リングに金網が張られ軽トラックで虎が運ばれてきた(金網デスマッチ!)。
虎がリングに放され、それまでの試合に出場していた選手たちが万が一の場合に備えてかリングの周りに立った。
聖道選手がリングに入り、伝統の空手の構えを取り虎にじりじりと近づいた。
聖道選手は左の直突き、右の直突き、右の前蹴りで虎を攻撃。
と、虎が両前足で聖道選手をかかえるように抱きついた。
聖道選手は倒れて、すぐに体勢を立て直したが口の横が切れて血が流れていた。
おそらくもみ合った時にツメで切られたのだろうと記されている。
その後聖道選手はセコンドに向けて手で「ダメだ」の意思表示をした、聖道選手がリングに入っていたのは約30秒ぐらいとのこと。
記事投稿者の印象だと、虎はおとなしくリングの出入りをしていたそうだから調教されたサーカスの虎だったのではないかと。

さて仮説だが前述のハイチの件と岐阜の対戦はリンクしているのではないか。
ハイチの件が報道されて中止になったのが77年1月。
岐阜の対戦が行われたのが同年7月。
ハイチの件を新聞報道などで読んだ国際プロ空手プロモーションの関係者が
「中止されたのならこちらがやってみよう」と考えたとしても時間的なつじつまは合う。
そしてこの興行で虎と空手家の対戦がそれなりの絡みをもって(つまり興行として鑑賞に堪えられるものとして)成功していたら、
次の興行でも「虎対空手家」は行われていたかもしれない。
しかし素手で最強の肉食獣にリアルファイトを挑むとは、あらゆる意味ですごい話である。

(2005.0122)

註1:雑誌の表記は74年とあり間違い。
註2:試合場がハイチに選ばれたのは他で許可が下りなかったからだそうであるが
まさかもし不測の事態が起きて、死者が出る事態になっても「生き返らせることができるから」ではなかったであろう。
ブードゥー教を信仰するハイチにはかの「ゾンビ」伝説がある。
註3:資料によると「対戦が実現したらアメリカはハイチへの援助をストップする」と、カーター大統領は康氏に告げたそう。
註4:言うまでもないが会場使用料、金網の制作費、虎のレンタル料などを考えたら観客20人では大赤字であったことだろう。

参考:
格闘伝説Vol.4 ナイタイ出版株式会社 2004年
紙のプロレス No.71 ワニマガジン社 2004年
別冊ゴング昭和51年10月号 日本スポーツ出版社

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