No192
ブルート・バーナード&ジャイアント・バーナード
↑(左)ジャイアント・バーナード(2005年4月10日後楽園)(右)ブルート・バーナード(別冊ゴング52年6月号)
東京スポーツ2005年3月22日(火)付け(21日発行)7面。
「全日本プロレス20日の東京・後楽園ホール大会は、
日本来襲を予告していた元WWE戦士のジャイアント・バーナード(30)が乱入し、
大混乱に陥った。
(中略)
メーンの世界タッグ戦終了直後だった。
巨象のような大男が、猛ダッシュでリングイン。
世界タッグ王座V2を果たしたジャマール、太陽ケア組に襲いかかった。
スキンヘッド。
そして耳、鼻、口、乳首にピアス。
さらに全身を覆うウブ毛。
正体はA.トレインの名でWWEマットで大暴れしたバーナードだった。
いきなり150`のジャマールを軽々とスパイン・バスターで叩きつけたバーナードは、
高々と宙を舞うビッグブーツも披露。ジャマールのアゴを粉砕した。
うわさにたがわぬ、いやそれ以上の潜在能力を、わずか2分足らずで証明してみせた」
(ここまで記事)
2005年3月20日、全日本プロレス後楽園大会に
往年のプロレスラー、ブルート・バーナードの息子が乱入して大暴れ!
親父のブルート・バーナード!
「あーあーあーあー、うーうーうー」
サイレンのような奇声を発しながら、曲げた腕を振りリングを徘徊するスキンヘッドの男。
全身は剛毛に覆われている。
史上類を見ないパフォーマンス「バーナード・ウォーク」!
1970年代の新日本プロレス来日時は生放送で
「あー!あー!あー!あー!」と叫びながら放送席の机に連続ヘッドバット!
名アナウンサー舟橋氏に「人間の限界を超えております!」といわしめた「野獣」!
そして彼が「野獣」と呼ばれる由縁となった(?)「大木金太郎耳そぎ事件」!
「昭和43年12月1日、ところは仙台市の宮城県スポーツセンター。
猪木とのコンビでバーナード、ロニー・メーン組と45分1本勝負(註1)で対戦した金(註2:大木)は、
1本目の乱闘のさ中、場外でバーナードの角材凶器の一撃を左耳にくってしまったのである。
それは文字通り目をそむけずにはいられないほどの大流血であり、
リングサイドでこの光景をまのあたりにしたファン数人があまりの凄さに失神したほど。
幸い1対1の後の3本目
猪木が2分7秒電光のコブラツイストでメーンをギブアップさせて日本組が勝利をにぎったが
この事件は日本のプロレス史に特異な一戦として残っている」
上記引用は「日本のプロレス30年史」。
一説にはバーナードは角材で脳天を狙ったのだったが、大木が僅かによけたため、
角材は頭部の側面に当たるようになり、大木の左耳に当たったとも。
いずれにしてもこの事件は日本プロレス史上に残る凄惨なアクシデントとして記録されている。
新日本プロレスのレフェリーだったミスター高橋の著書
「プロレス、至近距離の真実」にもバーナードについての記述が。
「私(註3:著者ミスター高橋)が知っているプロレスラーの凄味、
人間離れした迫力や強靭な精神力などを、誰よりも凝縮させていた男がブルート・バーナードだ。
(中略)
ブルートが日本にやってくる直前に、アメリカで交通事故にあって前腕部を骨折したことがある。
これは来日できないなと思っていたら、手術で腕の中に鉄棒を入れた状態で来日してきた。
まだ抜糸も済んでいないのに『契約は契約だ』といって試合に出て、(中略)
テープでぐるぐる巻きにして試合を続けていた。
(中略)
私が付き合っていた頃は、すでに外人クラス一番の年長さんの部類で、体のあちこちにガタがきていた。
だから実際に『この役立たずが!』と、控室で自分の体をぶん殴っている姿を何度も見たことがある。
(中略)
ブルートが新幹線のグリーン車の中で、涙をボロボロ流しながら肩を震わせて泣いている。
何事かと思ってそばに行くと、ベトナム難民の子供たちの痩せ細った姿が写った雑誌のグラビアが開きっぱなしになっていた。
『あー、可哀相だ。なんとかしてやりたい。あー、あー、・・・・・』
ブルートはその日、丸一日、何も食べられなかったという。そんな男なのである」
そのほかにもM高橋氏の著書では「運転中で眠ることの出来ない移動バスの運転手さんを気遣って
夜通し運転席の横で付き合っているバーナード」などの記述も。
リングを降りれば優しい性格だったのだろうか。
だが彼は動かなくなっていった体に絶望して自らの手で命を絶ってしまった・・・。
2代目バーナードへの期待は高い、あの叫びを再び聞ける日が来ることを祈る・・・。
「あーあーあーあー、うーうーうー」
「あーあーあーあー、うーうーうー!」
「あーあーあーあー、うーうーうー!!」
さて!もう少しおつきあいください。
M高橋氏の「プロレス、至近距離の真実」には以下の記述が!
「オレ(註4:ブルート・バーナード)は貧乏で学校に行けなかったから、
息子にはちゃんとした教育をうけさせて医者にさせるんだ」
何と、ブルート自身が息子に言及している文章がありました!
東スポの記事によると息子の年齢は30。
ブルートがピストル自殺を遂げたのは1984年だから当時息子は9歳ぐらいと推測される。
9歳だった息子は親父の死に直面して、親父と同じ職業(プロレスラー)を選択するに至ったのかどうか。
親父の希望だった「息子を医者にさせる」は実現しなかったようだが、天国の親父はどう思っているだろうか。
おいら(切鮫)は、親父はこう言うと思う・・・。
「プロレスラーをやるのなら徹底的にやれ!あーあーあーあー、うーうーうー!」
(2005.0323)
なお週刊ファイトはジャイアント・バーナードはブルート・バーナードの「孫」と、紙上で紹介している。
(2005.0503)
週刊ファイト8/3号No.1930では紙面真ん中ぶち抜きでジャイアント・バーナードのインタビュー記事が掲載されているが
それによると彼の父はポリス(警官)であったとの本人の独白。またインタビュー内では初代バーナードの話は一つも出てこない。
さすれば彼ジャイアントはブルート・バーナードの、少なくても息子ではなさそうだ。
では初代バーナードの息子と言うのはギミックなのか?
(2005.0727)
週刊プロレス8/17(1274)号ではジャイアント・バーナードが両親を語る記事が。
「父親は6フィート4インチ(約193a)、母親は5フィート7インチ(約170a)で、かなり大柄。
だからオレもこんなにデカくなってプロレスを職業にできたんだ」とジャイアント・バーナード。
ブルート・バーナードは193aもなかったし何時までたっても2代目が初代を語ることがないことからもはや初代ブルートと2代目元Aトレインの間には血縁関係はない、と言ってもいいだろう。
「バーナードの息子」はおそらく日本限定のギミックではないか。
だとしたらおいらも「アメリカのファンはムタがカブキの息子だと信じているらしい」と笑うこともできなくなっちまう(笑)。逆の意味で何だか痛快。
(2005.0806)
註1:「日本のプロレス30年史」では1本勝負とあるが、3本目の記述があることから明らかにミス。
参考、引用:「日本のプロレス30年史」昭和56年ベースボールマガジン社
東京スポーツ2005年3月22日(火)付け(21日発行)
「プロレス、至近距離の真実」 ミスター高橋 1998年講談社
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