No.388
幻の昭和プロレスラー「芳賀和昭」遺族の方が資料提供


↑(左)右が芳賀和昭。左は横綱千代の山。撮影場所は蔵前国技館だそう。
  (右)かなり肉付きがよくなっている、撮影時期不明。


09年8月から9月にかけて
芳賀和昭の遺族であるハンドルネーム・むくさんから芳賀の情報を提供していただいた。
力道山あるいは著名な横綱と一緒に写っている写真にはただただ驚く次第。

芳賀は前述したように青森県南津軽郡出身。元武士の家系。
地元・青森のアマチュア相撲では有名な強豪だった。

当時のアマチュア相撲は現在の実業団などが中心となる社会人相撲とは性格を異とし、
スポーツ競技としてのアマ相撲というよりは「村相撲」「草相撲」と言ったニュアンスの、
独自の興行的な性格も持ち合わせていたそうである。

また大相撲の地方巡業との交流も行なわれていたそう。
アマ相撲の力士たちはそれぞれ四股名を持っており、
芳賀は「千代昇」という四股名で青森県内では有名な強豪だった。
この四股名は交流のあった大相撲の千代の山から貰ったらしい。

以下はむくさんが芳賀本人、あるいは親戚から聞いたエピソード。

1.芳賀はアマチュアながらたびたび大相撲の部屋に出稽古に行き、
当時十両の位置の力士なら勝てたぐらいの実力があったらしい。
ある時芳賀が稽古で幕下十両を投げとばしていると
当時大関だった初代・若乃花(のち横綱・二子山理事長)が出てきた。
若乃花は「おお〜。学生が来てんのか。強いな〜。よし、稽古つけてやろう」と言ったそう。
芳賀も「よし、大関がどんだけ強いのか試してやろう」とばかりに意気込んだ。

『ところが、いざ若乃花にぶつかってみると相手はビクともせず、
芳賀の首根っこを持って「ほ〜れほ〜れ」とばかりに芳賀を面白いように振り回し、
ポーンと放り投げたのだそうです。
天狗の鼻を折られた芳賀は
「大関でさえこんなに強いのに、いったい横綱ってのはどんだけ強いのだろう」と思い、
大相撲に入門したのは止めたと語っていました』(『』内むくさんの提供資料より、一部改正)。

 
↑その初代若乃花と呉越同舟の写真。
  左後が芳賀、手前が若乃花。拡大してるのでやや荒い、スマン


2.国体アマチュア相撲での実績
1952(昭和27)年・第7回東北3県国体 団体優勝メンバー
1954(昭和29)年・第9回北海道国体  団体優勝メンバー&個人3位
1955(昭和30)年・第10回神奈川国体 個人優勝

 
↑第9回大会団体優勝、札幌にて。後列左が芳賀。

3.プロレスデビュー〜引退
昭和31年に懇願して日本プロレスに入門した芳賀は
「ウエイト別日本選手権」終了後の大垣、福井、金沢大会で
日本チャンピオンの芳ノ里、駿河海ら先輩を相手に三戦三引き分けと大善戦。

  
↑地方大会の試合。

あごひげをたくわえた風貌から「和製・ハロルド坂田」と呼ばれた芳賀だったが、突如プロレス界から消えた。
引退の理由をNo.259でいろいろ推理したが、むくさんの証言から事実が判明した。

力道山からアメリカ遠征を言い渡された芳賀だったが、
芳賀は英語が苦手で、アメリカ遠征がどうしてもイヤで力道山の下から逃げていったのだそう。

この件を裏付ける?別な話があり、プロレス撤退後会社を興し経営者となった芳賀が夫婦でヨーロッパ旅行に行った時のこと。
芳賀が某国の市場である食べ物を買おうとする時、それが生でも食べられるのか
あるいは火を通さなければ食べられないかを店員に聞こうとしたが、何しろ言葉がわからない。
で芳賀は身振り手振りで「火、しゅっ、ポッポ、ポッポ」と表現したのだが、店員に意思が通じず
もどかしくなった芳賀は「てめえこの野郎!」と店員相手に怒り出した。
あわてて止める奥さん。
店員は肩をすくめ「オー!!」とたまげていたそう。
いやはや何とも・・・もしこの時点で芳賀がプロレス界から消えなかったら、
その後 の日本プロレス界の歴史は、一つや二つは変わっていたのではないか。

  
↑プロレス時代の写真。後ろのヒゲの人物は藤田山?

4.プロレス撤退後
芳賀は東京で土建業の会社を興した。また、「全国土佐犬普及会」という土佐闘犬の愛好会において
マイクを持って解説部長の任に当たっていたという。自身も土佐犬を数頭飼育していた。

また遺族の方の話で、芳賀は先輩のU.トルコより強かったとか
あるいはジャイアント馬場が芳賀に自分から挨拶に来たシーンを目撃した、という話もあった。
が、この辺の話は話した方が現在高齢で、時期などの裏づけが取れなかったということ。

プロレス在籍期間があまりにも短かったため、プロレス史から忘れ去られてしまった芳賀。
しかし今回むくさんからの貴重な資料を公開し、その存在を明らかにすることが出来た。
むくさんから提供された写真には土佐犬の普及大会で
プロボクシングの歴史的世界王者・ファイティング原田とともに写っている写真もあり
(顔がかなり隠れてしまっているので発表は見送りました)、プロレス撤退後も広い交友関係があったことをうかがわさせる。
先にも書いたが、芳賀がもっと長くプロレスラーを続けていたら日本プロレス史はもう少し違ったものになっていたのではないか、と思う。

  
↑(左)力道山との練習風景。(右)横綱朝潮と。真ん中が芳賀。朝潮が横綱昇進した次の日に撮影した写真だそう。

(2009.0919)

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