No.395
幻の昭和プロレスラー「芳賀和昭」
資料続編&昭和36年がらみの新たな?謎


↑力道山と狩猟中の芳賀(右)。

再びむくさんからの資料などから。
まず「芳賀和昭」は「はが よりあき」と読むそう。

『「和」を「より」と読むのは「日和(ひより)」と読むのと同様です。
知らない人で正しく読める人はまず居ないです』
(『』内むくさんより、以下同、一部修正)

正確な誕生日は昭和4年3月17日(No.259の資料とは異なる)。
没は『平成6年の3月15日。65歳の誕生日になるほんの2日前のことです』

以下、むくさんから提供された芳賀関連のエピソード。
1.芳賀は第49代横綱・栃ノ海と結構付き合いがあったそう。
引退した栃ノ海がむくさんの兄の結婚式にも自分の部屋の力士を何人も連れて出席していたそう。

『調べてみると栃ノ海は、芳賀夫妻の出身地である青森県南津軽郡の出身でした。
伯父の話では「あの栃ノ海なんてのは、芳賀に全然かなわなくて、よく稽古つけてやってたもんだ」とのことです。
ただ、なにぶん高齢の伯父の話なので、裏をとるためにWikiで調べてみると栃ノ海と芳賀では年齢が8歳違うので、
おそらく芳賀が後の横綱を相手にしないほど強かったというわけではなく、
まだ相撲を始めて間もない後の栃ノ海・花田青年に先輩である芳賀が稽古をつけていたというほうが正確かと思います』

2.『草創期のプロレスはまだまだ地方巡業が中心で、
その頃の田舎興行では各地の「腕自慢、力自慢」の飛び入りというのを受け付けて、
若手レスラーが相手をするという趣向があったそうです。

ある日恒例の「飛び入り」を受け付けていると、
空手(唐手かもしれません)6段だとか7段だとかの某という空手使いが飛び入り参加してきたそうです。
その空手使いは、さながら昔の「姿三四郎」のドラマにでも出てくるような長髪の悪役空手使いのような風貌で、
「ひょ〜〜。ふぅ〜。」とばかり不気味な息吹を出しながら、リング上で空手の構えをしているのだそうです。

リング下で待機していた芳賀を含めた若手レスラーたちは
「いったいどんな不思議な技を使うのか」と全員真っ青になってビビッたそうです。
誰が相手をするか相談していた若手たちは「しょうがない。ジャンケンをして負けたやつが出ることにしよう。
そしてもし、そいつが負けたら力道山先生に出てもらおう」ということになり、
結局芳賀の同僚の一人が代表で相手をすることになったそうです。

カーンとゴングが鳴り、その空手家は相変わらず不気味な息吹を出しながら、レスラーと対峙します。
そして気合一閃。
「キエー」とレスラーの懐に飛び込んだ空手使いは、レスラーの胸元に正拳突きを2,3発突き出しました。
「あれ?」
レスラーは首をかしげる思いでした。全然効かないのです。
結局くだんの空手使いの正拳は鍛えぬいたレスラーの体には全然通用せず、
レスラーにペチャっとばかり組み伏せられて勝負はついたそうです。

それ以降地方巡業で空手使いが飛び入りで出ると、
若手レスラーたちは「おれにやらせろ」「いや、俺に行かせろ」と争って相手をしたがったそうです』

《むくさんの検証》
『この話は、私しか聞いた者はいませんでした。
正直私は、この芳賀の話には脚色もまじっていると思っています。
芳賀は人に話を面白おかしく語り、場の中心になるのが大好きな、
よく言えばユニーク、悪くいえばお調子者の性格でしたので』

「日本プロレス/アジア異種格闘技戦」によく似た話である。
まあ空手の名誉のために一言加えれば、当時は現代のように大型の空手家が少なかった、
つまり体重差がモロに出てしまったと言えるのではないか。
それから当時の日本の空手は技が少なかった、という事実もあるかも知れない。
芳賀が直接空手家と対戦したわけではなさそうなのが残念(1109切鮫)。

3.『芳賀が力道山の下で修行していた頃のことです。
力道山の道場には女優や美人ホステスなどの人種もよく見学に訪れてきていたそうです。

この力道山という人は芳賀に言わせると
「見栄っ張りで、女が見学に来るとすぐ自分が強いとこを見せようと若い衆をつかまえて、いたぶったりする」
ようなところがあったそうです。
ある日道場に東映だか松竹だかの若手女優陣が見学に来た日のこと。
力道山がいつものように、エエカッコしようと芳賀をつかまえ稽古を始めたそうです。

芳賀は力道山に袈裟固めの形でぐいぐいと締め上げられてしまい、
身動きもとれずマイッタをしたのですが、
力道山は女優陣の前でさらに意気が高まり離してくれません。

芳賀は「このままでは落とされる」と思ったそうです。
ところが芳賀も負けずに「女好きの、見栄っ張り」です(笑)
キレイな姉ちゃんたち大勢の前で、失神でもさせられおまけに失禁でもさせられたらたまらないと思った芳賀は、
力道山の胸に思いっきり噛み付いてやったのだそうです。

たまらなく手を離した力道山の胸には、その後しばらく歯型が消えず、
顔を合わせてもイヤな顔をして、芳賀の稽古相手はしてくれなかったそうです』

《むくさんの検証》
『実はこの話は、かすかな記憶で自信は無いのです(中略)。
力道山が女性の前では見栄っ張りだという話は、よく伝え聞く面ではありますが、この話が本当かどうかはわかりません。
Wikipediaの力道山の項に、力道山が黒タイツを履いたのは、
相撲時代若乃花がつけた歯型のせいだという説があると記載されていましたが、
芳賀がこの逸話をもとに作り上げた創作である可能性もゼロではありません。
それとも当時の格闘界はシゴキのきびしさから相手を噛み付くくらいに荒々しさがあった世界だったのかもしれません』



さーて、おいら切鮫にはどうしても気になる写真があるんだな。
No.388で紹介したこの写真。↓



地方興行の写真らしいが、注目はエプロンから掛けられている広告。
何て書いてある?













「モスラ」って読めませんかね。


↑「モスラのロゴ」すんませんがデアゴスティー二さんの東宝特撮DVD集から引用させていただきました。


ちょっとロゴの形が違うようですが、いかがです?読める?読めない・・・?
東宝特撮怪獣映画「モスラ」が公開されたのは1961(昭和36)年。
プロレス界では「第3回ワールド大リーグ戦」が行われ、怪物G.アントニオが大人気。
そしてあのカール・ゴッチ(当時のリングネームはK.クラウザー)が歴史的初来日を遂げている。
前年には大型新人・馬場正平と猪木寛至が入門している(もちろんのちのジャイアント馬場&アントニオ猪木)。
広告が本当に「モスラ」のものだとしたら、芳賀の日プロ在籍時とどうも時期が合わないような気がするんだが…。
日本プロレスと東宝がタイアップしたという話も聞いたことがないし(註1)。

さすればむくさんの表現するところの「ドサ回り」が、
日本プロレスの目をかいくぐってのインディペンデント興行であったという可能性もある。
そしてそこに地方の映画館が全世界同時上映、
初の東宝スコープによるカラー怪獣映画がスポンサーに名乗りを上げたとしたら…。

残念ながら推理はここまで。広告も上下が切れてしまった写真だけに記事は想像の域を出ない。
どなたか新事実ありましたら教えて。

(2009.1213)

註1:但し!映画「モスラ」にはユセフ・トルコの兄弟といわれている、
芸名オスマン・ユセフ(故人)が出演している。
彼ら兄弟による何らかの絡みで広告がセッティングされたという仮説も否定できない。

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