No.311
スパーラのリスターは実在した〜棒術師、柔術家との対戦



No.272「姿三四郎対スパァラは『猪木・アリ戦』の原型か」で紹介されたスパーラ(スパァラ=ボクシング)は
1887(明治二十)年6月築地において
山響部屋の元力士・浜田庄吉のマネージメントにより
ラスラ(=レスリング)とともに
「欧米大相撲」「西洋相撲」などと称して興行が行われた。

資料にした小島貞二氏の著書「ザ・格闘技」には興行のポスターの写真が載っていたが
下2/3は組み合ったり(ラスラ)グローブ着用で殴りあったり(スパーラ)している多数の人物たち。
中央にはプレーイング・マネジャーの浜田が上着着用。
一番右の上に「欧米大相撲 スパーラ ラスラ之図」の文字。
その右隣に「力士名前」とあり絵柄の上1/3に選手の名前が漢字・カタカナ混合の縦書きで連なる。
まず最初に「日本人 浜田庄吉」とあり以下
米国人 ショテーションアムスン」「同 ションテキスン」などと続いた後に
英国人 ウヰリヤムリスター」とある。
リスターと言えば「姿三四郎」に登場した仇役のスパーラの選手の名前だ。
三四郎のモデルが講道館四天王の一人、西郷四郎であったように
スパーラのリスターにもモデルが存在したということなのだろうか。

この実在リスターは日本の武術家と相対する。

『初日の景気をあおろうと、浜田は
「体術家の諸君に告ぐ!われと思わん者、西洋大相撲に挑戦すべし!
勝ちたる者には金十両呈上!」
とうたった。
これでももし飛び入りのない場合を考慮して、
入谷に住む楠文太夫という棒術の先生にあらかじめ出場を依頼してあった。

初日の前、打ち合わせを兼ねた酒席のあとで、
楠は英人ボクサーのウイリアム・リスターと、リハーサルをやった。
楠は六尺の樫の棒を持ち、リスターはグローブをつけてにらみ合っているうちに、
だんだん熱が入って、リスターは棒で左手首を打たれ、
楠は右のストレートを一発モロにくって、ともにダウンする始末になってしまった。
これが警視庁の耳に入り、「内外人の格闘を興行することまかりまらぬ!」の指令がとんで来た。
思わぬショックに見舞われたが、そんなことが逆に話題を呼び、初日はまずまずの入りとなった』(註1)

スパーラ対棒術は両者ノックダウンの引き分け。
しかし「酒席のあとで」という記述から推するところ
両者あるいはどちらかが酔っ払っていた可能性もある(笑)。

さて本興行では20日の初日、リスターは飛び入り?の起倒流柔術家古島某と対戦、
右ストレートで鼻の骨を砕いて顔面血だるまにしてKO勝ちした。
実在のリスターが柔術に勝っていたということは面白い。
21日は元序二段力士の浜田庄吉と対戦。
これまた顔面パンチでリスターのKO勝ち。
実在のリスターは100kgを超えるヘビー級ボクサーで、当時アメリカで有名なプライズ・ファイターだったということだ(註2)。

「姿三四郎」の原作者・富田常雄は1904(明治37)年生まれ。
父親は講道館四天王の一人、富田常次郎。「姿三四郎」のモデルとされる西郷四郎と兄弟弟子。
年代が近いことから富田常雄がこの「欧米大相撲」のポスターを資料としてどこかで見て
その中にあった名前「リスター」を主人公の敵役の名前に採用した、という仮説はどうだろうか。
とすれば小説「姿三四郎」は、100年以上前にはるばる極東のこの地にやってきてボクシングを披露し
そしていつ帰国したかも不明な英国人ボクサーのメモリアルとしては充分な機能を果たしていると言えるだろう。

参考資料:1.「ザ・格闘技」小島貞二 昭和51年朝日ソノラマ
2.ゴング格闘技昭和63年1月号 「日本格闘三国志 猛打拳闘創世紀」海棠智美

註1:『』内参考資料1より
註2:20、21日の本興行での試合結果は参考資料2による
(2007.0630)

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