No.11
映画「王者のためのアリア」と作品内に見られる近代プロレスの萌芽



1984年夏、東京・大森の映画館キネカ大森にて「王者のためのアリア」というポーランド映画を観た。
映画の主人公はウワディスワフ・グラレヴィッチ。世界的な名声を得たプロレスラーということである。
モデルは1910〜20年代にヨーロッパ、アメリカを股にかけいや遠くインドにおいてさえ
グレート・ガマとの伝説的な試合を行ったポーランド出身の実在したレスラー、
スタニスラウス・ズビスコ・ツィガネビッチ。
実在のズビスコの生涯については多々なるエピソードがあるようなので、
ここではまずズビスコをモデルにした映画「王者のためのアリア」について書いて行きたい。
この映画には近代プロレスの成立にかかわる多くの事象が描かれている。


映画の中での、ズビスコの分身たるグラレヴィッチは幼年時代をポーランドの片田舎で過ごした少年であった。
彼は村に時々やってくるサーカスの一団に強い憧れがあった。
幼年時代のグラレヴィッチは「村で一番醜い」ことを売りにして
サーカス団の団長であるジーデルマイヤーにサーカス団への入団を希望するが、
「醜さに物語がない」ことを理由に却下される。
何年かを経て見事な体格の青年になったグラレヴィッチは再度サーカス団への入団を団長に直訴する。
団長は体格はいいが素のままのグラレヴィッチに、
「箔をつけるために」ドアに頭を挟んで耳を潰すことを提案する。
現在ではカリフラワーと呼ぶ潰れた耳はレスラーのみならぬ格闘家の証明だ。
団長の要求を呑んだグラレヴィッチが頭をドアに挟むためにかがむ。
団長はグラレヴィッチの頭を押え、廊下に誰もいないのを確かめてから思いっきりドアを閉めた。
すっごく痛そう。




耳に大きな傷を作りながらも晴れてサーカスに入団したグラレヴィッチは
さまざまな芸を持つ団員を紹介される。
その中の一人、怪力で鎖を引きちぎる盲人(本当に盲人かどうかは不明)
ツィクロプ(名前の由来はギリシャ神話に登場する一つ目の怪力の巨人)は、
鎖を引きちぎる芸をしながら超人的な怪力を授かった瞬間に光を失ったと自ら語る。
生い立ち、経歴についてストーリーが存在するのはサーカス、
見世物小屋でのアクターのみならず少し前のプロレスラーでも多く見られる。
曰く、「元は判事だったが死刑判決を言い渡した女囚が魔女で、その呪いによって奇病を患い醜い容貌に変わってしまった」フレンチ・エンゼル。
曰く、「日本人柔道家をバックブリーカーで殺してしまった」MSGの英雄アントニオ・ロッカ。
曰く、「幼少時のしょう紅熱で全身の毛が抜けてしまった」無毛の魔人スカル・マーフィー。
曰く、「スラム街で鼠を食って生きていた」暴走戦士ロード・ウォリアーズ。
曰く、「幼少時の火事で顔に火傷を負った」WWEのケイン。

ズビスコが主人公のモデルになっているとは言っても脚本も兼任している監督フィリップ・パヨンは、
映画をズビスコの自伝的映画にしようとはハナっから思っていなかったらしい。
ズビスコは1876年(明治9年、1881年生年説もあり)、ポーランドの片田舎ガルシヤで生まれたそうだ。
実在のズビスコの父はオーストリア政府の役人で
(1918年の第一次世界大戦での敗北までのオーストリアという国の、ヨーロッパにおける国力というものはまだまだゆるぎないものであった。
「日の沈むことのない王国」ハプスブルグ家である)
彼をウィーンの大学に入れ将来は役人としてのエリートコースを期待していたらしく、
法学、哲学、古代史、農学を学ばせ、語学は11ヶ国語を習得したという。
ズビスコは当時としては稀なインテリレスラーだったわけだ。

だが映画のグラレヴィッチはポーランドの片田舎の、サーカス好きの少年という設定。
学生服で登場する青年期のグラレヴィッチは、田舎としてはそれなりの高等教育を受けていたのかもしれない。
劇中サーカスの新米レスラーとなったグラレヴィッチはのち宿敵となるアプス兄弟に、
学校で習ったという詩をそらで披露する。

「獅子が原にて 決闘を待ちわびる  
フランツ王の頭に輝く王冠   
桟敷に集まる淑女たち  
王、指もてさせば   
檻の口は開き 獅子、姿を現しぬ」 (シナリオより)

サーカス団の団長であるジーデルマイヤーはたまたまこれを聞いて感心し、
グラレヴィッチにリングインしての口上に詩を使うことを勧める。
西暦2003年現在アメリカのプロレスをほぼ制圧したWWEでは、
もちろんマイクを使ってのしゃべりは必須項目である。

サーカスで行われる試合は会場の地べたで戦う。周囲には観客が集まっている。
この時代はまだ正方形でロープを張られたマットは確立されていなかったのだろう。
日本における黎明期の相撲も土俵が確立される前は
「人方屋」と呼ばれる周囲の観客の人込みに押し込めば勝ち、という時代があった。
八百長を強いられている試合で禁を破って実力勝負を挑み、
先輩レスラーのシュペヒトに勝利してしまうグラレヴィッチ。
八百長をジーデルマイヤー団長に強制していた?賭けの胴元は怒り心頭で団長を追い回す。
アプス兄弟はグラレヴィッチをリンチにかけ、身ぐるみはがしてしまう。
グラレヴィッチは全裸で尻を丸出しにして、田舎道を逃げてゆく。
彼はアプス兄弟に復讐を誓う。

グラレヴィッチはその後元サーカス仲間の死などを経験したが
レスリングは各地のトーナメントに出場し腕を磨き、やがて世界的な名声のレスラーへと成長してゆく。
この時代のヨーロッパはフランス流グレコローマンスタイルで統一されていたようで、
各国で行われていた大トーナメントもそうした統一ルールで行われていた。
しかしローカルルールのレスリングは各所で行われていて、
イギリスで約30年間王者ジョージ・ステッドマンが君臨した
カンバーランドスタイルやウェストモーランドスタイル、
あるいはカラーアンドエルボー(襟とひじに手を沿えた形でスタートする)などが存在していた。
またアメリカは独自の進化を遂げたらしく決闘ムードのフリースタイルが主流であった。

フランス・パリのトーナメントで宿敵アプス兄弟の弟の方と対戦することになったグラレヴィッチ。
フランスでホールの給仕に身を落とした元・サーカス団の団長と遭遇し、
彼が借金返済のために有り金すべてをグラレヴィッチの勝ちに賭けることを聞かされる。
そのため彼はグラレヴィッチにアプス弟の弱点を教える。
大会は行われグラレヴィッチは強豪相手に勝ち進んでゆく。
この大会もリングはなくホールの真ん中の、ホールの床で戦っている。
ホールの床は一部ガラス張りだ。
ガラスの上で試合・・・。
地下室でもあるのか床のガラス越しに相手のホールドに耐えるグラレヴィッチの苦悶の表情を、
ガラスがなければ唇と唇がつきそうな位置で下からうっとりと眺める元・団長。
他の観客に気づかれないのかと突っ込みを入れたくなってしまう。
やがてグラレヴィッチはアプス弟に勝ち大会を制した(アプス弟との絡みは画面ではあまり強調されていない)。

美しい妻、黄金のベルト、高価なアトラス像。
世界チャンピオンとなり上流階級の仲間入りをしたグラレヴィッチ。
しかしいまだアプス兄との対戦が実現しない彼に、満たされた思いはない。
だが・・・チャンスは突如やってきた。それも向こうから。
アメリカに渡ったグラレヴィッチ、その日は妻や女友達と馬車に乗ってオペラを観に行く予定だった。
そこに突然一人の男が現れる。アプス兄だった。
アプスはグラレヴィッチにチケットを渡して立ち去る。
今夜のロンドン・パビリオンの試合のチケットだった。
グラレヴィッチは妻たちとのオペラ鑑賞を断り馬車から降り、歩き始める。


●ロンドン・パビリオン
リングサイドには人が溢れ、熱気に満ちた会場。グラレヴィッチが来る。
ポーター「入場券を」
ポーターに帽子、コート、ステッキを渡す。
リング上には、星条旗をまとい黒覆面のアプス兄と、白い天使の羽根をつけたレスラーが登場。

司会者「(英語で)世紀の賞金が賭けられます。黒覆面を倒したものに五百ポンド!
この異例の賞金は誰の手に!」
(シナリオより)


ロンドン・パビリオンにはロープを張られた四角いリングがあった
(シナリオでは熱気に満ちた会場とあるが、映像では何かうらぶれた暗い雰囲気が漂っていた)。
やっとのこと、四角いロープ張りのリングの登場である。
天使の羽根などという、コスチュームの出現も見られる。
そしてアプス兄は覆面レスラー。
実世界史上初の覆面プロレスラーの登場については諸説あるようだが「マスクド・マーベル」の名は共通である。
1927年1月ジョージア州アトランタで当時カレッジレスリングの強豪であり
後の世界チャンピオンでもあるレイ・スティールがマスクド・マーベルの名で登場という田鶴浜弘説。
また流智美氏の著書「やっぱりプロレスが最強である!」では
「‘15年12月に出現した史上初の覆面レスラー、マスクド・マーベル」との記述がある。
ここではマーベルの正体は1904年のセントルイス・オリンピックにヘビー級代表として出場して5位入賞を果たした
モート・ヘンダーソンという人物であると記載されている。
諸説あるということは覆面レスラーマーベルは複数存在したのかもしれない。
いずれにしても覆面レスラー誕生が1915〜27年ということであれば(註1)実在のズビスコの活躍時期と何とか重なるということ。
飛び入り歓迎の賞金マッチというものもここでは見てとれるが、割愛する。

覆面レスラー・アプス兄は打撃を中心としたラフファイトで天使のレスラーを簡単に倒す。
天使のレスラーは気絶し、運び出される。
ここで行われるスタイルはヨーロッパのグレコローマン・スタイルではない。
打撃攻撃がOKのアメリカのフリー・スタイルである(コスチュームの星条旗によって強調されている)。


アプス兄「(コーナーにより、覆面を取って挑発するように)この会場に、リングの王者が来ている。
世界のチャンピオン、パリの黄金ベルトを持つ、グラレヴィッチだ!」
騒然となる会場、興奮する司会者。グラレヴィッチは観衆をかきわけて前へ進み、リングに上がる。
グラレヴィッチ「アプス、俺の友!」
アプス兄「服が汚れるぞ」
グラレヴィッチ「五百ポンドを手に入れたら、新調するさ」
(シナリオより)


試合が始められた。グラレヴィッチは正装に蝶ネクタイのままだ、タキシード・マッチ!
アプス兄は蹴りによる攻撃を多用。スタイルの違いが見て取れる。
グラレヴィッチ服がずたずたになり流血。
しかし蹴りにきた足を捕らえて反撃開始。
グラレヴィッチ、アプス兄を逆さまに担ぎ上げ、脳天からマットに落とす。
そのままの体勢で離さず再び持ち上げて、何度も何度も叩きつける。連続パワーボム!
パワ−ボムは「鉄人」ルー・テーズの隠れた必殺技であり(テーズ自身はリバーススラムと呼称していたらしい )
この時代にはそぐわない立体技ではあるが映像的な視覚効果を考えると
制作側が大技での決着を選択するのは致し方ないだろう。
決着がつき放心状態でリングを降りるグラレヴィッチ。
司会者が賞金を渡すが受け取ろうとしない。
仕方なく司会者はグラレヴィッチのポケットに札束をねじ込む。
会場を去るグラレヴィッチ、広場の噴水に入り水を飲む。札束をばら撒く。
オペラ座を仰ぎ見る。
アリアがいっそう高らかに響き渡る。

実在のズビスコがアメリカにわたったのは第一次世界大戦で財産を失ったからであるが、
この映画の中では戦争の記述は一切ない。
アプスとの対決のクライマックスまでにグラレヴィッチが挫折するのは
ストーリーの流れにそぐわないと監督は考えた、と見るが。

難解であるがプロレスの歴史を語る上では重要な映画だと思う。
だが2003年12月現在ソフト化されている様子はなく鑑賞する機会が少ないのは残念だ。

(2003・1207)

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(註1)青土社現代思想臨時増刊号「プロレス」の斉藤文彦氏の文章「プロレスはプロレスボーイズはボーイズ」によると
「プロレス史上初めてのマスクマンがパリに登場するのは、それから17年後の1873年のことだ」との記述がある。
さすればアメリカマットよりヨーロッパマットの方が覆面レスラーの出現は早かったことになる。
参考文献:
映画鑑賞時に購入したパンフレット「KINECA 1984年8月号(第3号)」西友文化事業部
田鶴浜弘「プロレスオール強豪名鑑世界編」有峰書店新社、昭和61年
流智美「やっぱりプロレスが最強である!」ベースボールマガジン社、1997年
現代思想臨時増刊号「プロレス」青土社、2002年2月


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