01 指の蛇口から色とりどりの血が出ている絵
それにしても世界的規模の大造船会社をたった一代でつくり上げた程の人物がねぇ。
― 人生もほとんど終えちまったあの年令にまでなって ―。
他人が聞けばほんの些細な…と思える事をとてつもなく苦にしてあっさり自殺をしちまいなさったと云うんだが…。(あんまり些細すぎて、死ななきゃならなかった訳については、もう誰もが忘れてしまった程でして…)。当時は世界中の各方面でえらく話題にされたものでしたなぁ。
八十年もの長くて重たぁーい実績を含んだ人生の中へ、ごく最近起ったほんのちょいとした出来事がポタリと一滴落ち込んだぐらいのことでそれが汚れとして全体に広がり、その小さな事柄とは何のかかわりも無かった堂々たる人生すべてを、自ら殺してしまったというのは自分の罪のない人格まで道連れにしてしまったという事でもあるんです。
元来、人というものは、生まれてから死ぬまでの間、目や耳から入ってくるひとつひとつの事柄をすべて赤い血の中に交ぜて溶かし込み、体中に廻してしまいます。それを特に強く記憶として残すのは脳ですが、実はからだの各部分も、それぞれ受け持ちなりの記憶をするのです。更にそれらは常に昔のもの、新しいもの、何やかやが内部でゆっくり交ざり合うように動いております。だから人の中からもとのひとつだけのことを抜き取ろうとしてもムリなはなしで、もしそれをしようとするなら一度全部を赤い血と共に流し出してしまわにゃならず、つまり…ひとつの記憶を抹消するのにはひとり全部を殺ってしまうって事になる訳ですよ…。と実は、あたしもあの事があるまではそう思っておりやしたんで…。えっ…あっしの仕事…ですか…。へぇ、あんまり人様に誇れるようなもんじゃありゃせんが…世の中に蔓延る悪を銭もらって刈り取る…と申し上げりゃ、もうお察し頂けると思いやすが…つまり、平たく申し上げりゃ“御法度の殺し”を生業としていたもんなんですよ…。
…いやぁ…これは大分前のはなしなんでやすがね…で、あの日は、当時急に世間にのし上がってきていたある企業家から特別に割の良い条件で依頼があって、ひとりの男を殺しに出掛けやしたんで…へぇ…。御承知かも知れませんが、あたしらの商売じゃ頼み方からの依頼は受けるが決してその“わけ”を聞かねえのがならわしなんで、その時も、やる方とやられる方の間柄についちゃほとんど知りやしませんでしたが、ま、ちょい聞きしたところによると、何でも殺られる方は、知っちゃならねえ相手の秘密を知ってしまったと云う事で依頼側に云わせりゃそれは人類全体にとってもえらく危険な人物だということでやした。つまり、でやすからその男を殺るちゅう事は“これも世のため”と大義名分が成り立つ訳で、あたしらも心の底に誇りを持って出掛けて行ったもんです。
「おめえさん、秘密を知っちまったからにゃあ死んで貰うより仕方ねえんだ」…とまずあたしが私自身にもよくは聞かされちゃいねえ“秘密”なんてことを口走りながら相手の男に詰め寄りやした。
「あんた、運が悪かったのねぇ」。その日相棒をつとめた女は、あたしよりなお事の訳も判らねえくせに凄んで見せたもんです。するてえと相手の男は必死に、説得するように云いやした。
「私は君等に殺られてしまう理由にはいかないんだ。もし殺るとしたら君等にこのコロシを依頼した人物に関係のある部分だけにしてくれ。それは私の中のほんのちょっぴりの部分だけなんだ。どうして私全部を殺してしまおうとするのかね…」。
…情けねえことに、あたしゃ相手の意味がまるで判らねえで、急にいらいらしてきやした。相棒の女は「こういう場になると思い付きの言い逃れを並べたてて云うものさ」、なんて凄み冷たくあしらい、ますます陰険な目をしてましたなぁ。
「あんたが知っちまった“あの事”がばれると世の中で困る人がうんと増えるのさ、だから気の毒だけどあんたにゃ死んで貰うのさっ」。
女は全くあてずっぽうに、もっともらしいセリフを吐いたもんです。
ところが男はその時、大きくうなずいて見せると、「判った、な、ならば私から“あの事”だけを抜き出してしまえばいい…そうすりゃ私全部を殺さずにすむじゃないか…」。
あたしはさっきから男が何度も叫ぶ“私全部を殺すな”という意味の判らねえ言葉を聞かされているうち何だか遮二無二カーッとなってきて、「うるせえ、ふざけるんじゃねえ、てめえ俺をなめてるな、訳ありげな出鱈目言葉で時間を稼ごうって魂胆かい!せめてもの情けってぇヤツで、ひと思いに楽にあの世に送り込んでやろうと思ったが、これじゃ、じわじわといびり殺したくなっちまったぜ」、と怒鳴ったもんです。そして手に持っていた刃物を滅茶苦茶に振り回したんですわね。 ―。
男は、わっと声を上げ、片手でもう一方の手を押さえながら椅子に倒れ込んでしまったんですよ。…刃物の先が男の指を鋭く切っていたのですな。
かーっ…真っ赤な血があたりに飛び散って…と、それまでやった仕事では、ここで真っ赤な場面が必ずやって来たもんでやす。男の押さえた指の間からは、赤、青、黄、紫、白、オレンジ色、黒、茶…と、そりゃもう数えきれねえ程の色数の液体が縄になったり渦になったりしながら、したたり落ちておったのです。
あたしら二人はびっくり仰天 ―、あまりの驚きですっかり動けなくなって、その極彩色の血しぶきをぼんやり眺めておりやした。
「うーん…あんた達がおっしゃる…秘密とやらはどの…色…に溶けてる…のかね、その分だけを抜き取って…早くここから…出てっておくれ…」
男は傷の痛みをこらえて、色とりどりの滴をパッパッとあたり一面に散らせながら勝ち誇ったように云いやした。そこで、やっとあたしらは、その男がさっきから云っておった言葉の意味が呑み込めたんですよ。
あたしらは普通“ひとりの人間”てのが人間の単位じゃ一番小せえものだと思っとりまさあねぇ。え、そうでしょう。へえ、そいだもんだから早い話が、どんな事でも自分の心の中にぶち込んでさえおきゃあ、もうそれらは自分だけのものだと、すっかり安心しておりますなぁ。ところが中にゃあ、その自分ひとりを更にまた小さく小さく分割区分して扱っておる、こまけぇ人間もあったってわけですよ。
あたしと相棒の女は、男が秘密を隠していると思われる、薄紫色の部分を何とか探し出すと、急いでそこだけを注意深くスポイトで吸い取り、這々の体で逃げ帰ったような訳でした。もう一寸のところで罪もねえ部分まで巻き添えにしちまうところだったってことですよ。あたしらはあれ以来、あの仕事からプッツリ足を洗いやしてね、へえ、今じゃ、人の世に蔓延る、自殺や心中で自分一人を皆殺ししようとする奴らに銭やってもう一回てめえを見直させる闇のおたすけ商売をやっとるような次第で…。