28 開閉不可能な本を見る母子の絵
ずっと前、妻の友人の女性が亡くなった時の話です。亭主の私とは別に親しい間柄ではなかったのですが、妻に言われて遺族を見舞ったのです。
玄関先へ十七、八になる故人のひとり息子が出迎えたので一通りお悔やみの挨拶を述べると、「それはわざわざどうも…奥の祭壇の方へどうぞ」と云い、先に立って歩きだしました。
案内される侭、後に続いて行ったところ、どうしたのか、何時まで経っても奥の部屋というのに到着しません。そこでよく注意して見ると、彼は何回も同じ部屋や廊下を徘徊して私を引き廻していたのです。その挙句やっと着いた奥部屋は、なんと私が最初に立っていた玄関口で、祭壇は其処の脇にある薄暗い大きな物置部屋だったのでした。
私は妻が、「亡くなった友人は一寸変わった人だったけど、息子はもっと変わった子だからそのお心算りで…」。と出掛ける前に云った事を思い出しました。しかし、たくさんある宗教の中には、変わった儀式をするのもあると聞いていたので、この奇妙で回りくどい案内方法もきっとこの家の宗教の仕来りに違いないと思いました。そこで私の方から、今日はこの家の宗教儀礼に従った方法で霊を慰めたいと申し出ると、故人の息子は、それでは一切自分が先にやって見せるから真似をしながら付いて来るように云いました。
そのやり方は何から何まで、他の宗教とは調子の異なる非常識的なものでした。まず祭壇そのものがまるでそれらしくないのです。玄関脇の暗い物置にピラミッド型に積まれた本の山…がそうなので、私は大いに面食らったのでした。
この祭壇の意味について教えて貰おうとして振り返ると、施主である息子は大欠伸をしながら背伸びをしている最中で、挙句、ぷいと小窓の外を向いてしまいました。お悔やみ客の前での謹みない振舞いに些か腹立たしい感じを持っていると、直ぐに彼が察して、これは既に家の宗教的流れに入っている仕草で重要な事だから早速真似して欲しいと云いました。
私が云われた通りに欠伸をし終わるのを見届けると彼は祭壇に額突き合掌して目を閉じました。…が次の瞬間、上目使いに祭壇や周辺を窺う様子をしたかと思うと舌をペロリと出したのです。
何たる無礼…と思いかけましたが、前の欠伸の件もあるので彼の様子を見ているとやはり今の動作も直ぐやるようにと顎をしゃくり目配せせた後、「今からの事は総て家の宗教での必要行動ですから、お見落とし無く全部真似なさってください。それが故人への最大の供養となるのですから…」。と苛立たしそうに云いました。彼は額突いた侭の姿勢で左膝だけを床に着け、それを支点として右に三回まわり、更に人差指を口に突っ込んで唾液で濡らし目の周りに塗り付けました。それはあたかも故人への哀惜の涙のように光りました。今度はそれを元に戻すように左に逆回転し冷笑しながら自分の尻を三度祭壇に向けて叩きました。次は立ち上がってピラミッドの周りに無造作に置かれてある故人の遺品など手に取りゆっくりした動作で用心深く観察します。この動作はとても重要で、その品々から故人の今生での社会的地位や人品、性格、財産等を覗き見する…と云う意味が含まれているのだから、なるべく時代掛った大芝居でするようにと促されました。
この後、一旦脇のテーブルに着くと、お茶を飲みつつ、しつっこく(なるべく根掘り葉掘り)故人についての質問を繰り返す場に来ます…。
実を云うと私はもうその前から既にこの儀式にはうんざりしておりまして、故人の事を縦横お構いなしに詮索した上、お茶飲み話の種にするというこの段に至ってはもう我慢し切れなくなり、不快極まりない心情を率直に云おうとしました。
その時です。
「パーラットシンビーグンドール、等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間、皰、皰裂、アタタ、ハハバ、フフバ、青蓮華、紅蓮華、大紅蓮華、キリットシンビーハナヤーナキュー…」と大声で唱え、ひれ伏した彼は、呆気に取られている私に、この呪文を唱えるのは当宗教で最も重要な部分で、謹んで口にするよう厳しく命令しました。これは最大の観念都市ヘイディーズの国語の音読みで、大体の意味は、「…すべて石ころも、虫も、人間も、前世やあの世もごちゃ混ぜで、地球上の同次元に転がっており、凝結と解体を繰り返しているだけ…八熱地獄も八寒地獄も本当は日常生活と隣り合わせに有り、何時なんどき、己の行き場となるか判らないのだから、今生での生活のうまみだけを総ての尺度の基準に徹底的な得をし、一切の損失を排除するためには他人の力量をよく知って常に僅かでも己の方が相手より上に成るよう努力するべきだ。旨い物を食い体力を付け法ぎりぎりのところで生きて、しかしそれを犯さず、煩悩を何よりも大切にして死に際に後悔しないよう。永劫の時間という観念なんぞは人間にとってまるでデカ過ぎて問題に成らず、そんな物に照準を合せた考え方など身の程知らずの愚かなことだ、捨ててしまえ…」。ということだと説明しました。
私にはこれは俗悪極まる思想を根底に持った宗教に思えて来て、とても呪文など唱える気にはなれず、ますます不愉快な面持ちになって黙っておりました。
儀式は全部終わってはいなかったけれど、もう暇を告げ、「率直に云って、故人の冒涜、或いは、その霊を汚しているとしか思えないこの儀式は何宗のものなのかね」、と興奮気味に聞いてみました。
彼は私の気持ちに頓着なく、「勿論、全部私の考えたものです…いや、しかし、元はと云えば亡き母が私へ懸命に与えた教育から絞り出したエッセンスなんで、つまりは故人の最も望む事だと信じておりますよ」。と無表情に云いました。
それから幾年かが過ぎました。その間会う用もなかった彼の事などすっかり忘れておりました。
ところが、つい先日の事、あるデパート主催の古書、珍本展示即売会に行っていた私はバッタリ“あれ”に遭遇してしまったのです。
ずらり並ぶ本棚とは別に、白黒の幕で囲われたコーナーが会場の一隅に作ってあるのでのぞいてみると
三百平方メートルばかりの床の真中に、あの時の祭壇…ピラミッド型に積み上げられた本の山が置かれてあったのです。私はそれを見ると一気に過去に引きずり戻されて、当時持っていた不快感が甦り大きく広がってきました。
あのねじ曲がった青年が祭壇にしていた書物とは一体何を意味していたのだろうか…。
私は幕仕切りのコーナーに入り、ピラミッドから手近の一冊に手を掛け取り上げようとしました。それを見ると会場係が大声で制止しながら走ってきました。本を見る場合は必ず係と一緒でなければ開いてはいけないと云うのです。
七、八人の係員が本を広げ始めました。最初一番上の一冊を開くと、その横には別の一冊が別の角度で繋がっており、更に反対側にも別のがくっついておりました。背表紙からも一冊、そしてその本の裏や柄の部分からも他の本が生えて、又々それ等の本にもあらゆる方角に本が繋がり、またその本たちにも更に本が…。
係全員が手伝い広げてみると驚いた事にそれらは全部が繋がっていて、つまり、ピラミッドそのものが一冊の巨大な本だったのです。特別コーナーいっぱいに広がった本は、縦、横、裏、そして空間的、内容的に、或いは抽象的に結ばれていた訳です。
この本については係から次のような説明がありました。
先ず、基本的、一般的な知識を満載した最初の一冊を読んでいくうち、解らない箇所が出てくると、解り易く説明をした本が横に着いて手助けし、また、角度を変えた解釈本も下にくっついて補助します。しかし何事にも意味というのは幾つもあるのが普通なので、最初の解釈だけでなく次々とグレードが上げられます。横槍や、じゃじゃを入れた考え、或いは穿った見方、更にはねじ曲げた目を以て考えられた内容の本が裏表紙辺りから出ており、やっと最後に総括的な無難思考がその横に控えてあって締めくくるように出来ています。
ひとつの事柄に対して何時もあらゆる方面から分析する習慣が出来ることで、隙や破綻が生まれない思考方法が網羅されていることになるのです。こうした多角的捉え方で頭脳形成をしていくと知識の吸収は効率良くなされ、それだけでなく必ず文学的才能や、哲学的思索がこの読書の余韻の中で生まれ、これも同時に至れり尽くせりの状況下出完璧に成長させていくことになります。また縦横に組まれた知識の海は、知らず知らずに音楽、絵画などの芸術の真髄も吸収させており、それに関連して必要となった他の学問、科学や数学も同時に修得出来る配慮もなされています。まだその上、修得した知識に国際性を持たせたいとの考えから、この一冊を完読するころには重要外国語三つがマスター出来る工夫までが加えて編纂されているのです。読書する者の日々成長に伴って内容も徐々に上がり極点に到達し、応用範囲は何処までも広げられるように出来ているので、この本一冊の完読は、“完璧なる人間作成”を意味しているのであります。
係員はこの複雑な本を紹介しているうち、自分にも混乱を起こして吃りながら、やっとあらましを説明し、「この珍本は、一年程前、ある廃屋の大きな物置から廃品業者が見つけ出した物を、当デパートが買ったのです。多方面の学者先生に依頼し調べていただいたところ、内容は古今東西、あらゆる分野の人達が書いた著書その他から勝手に抜粋、盗作した物で、従って特定の著者はおりません。この本の所有者もはっきりしないのですが、最近、このピラミッドの置かれていた床下から青年らしい人の人骨が見つかったという事なので、その人の持ち物だったのかも知れません…」、と云いました。
これを聞くまでもなく、私はやはり彼の青年のことを思っていました。
…人間の成長をガンジガラメの予定の中に組み立てた“完璧人間作成用とらの巻”のこの一冊を与えられた少年時代の彼が、退屈さや嫌悪感に悩まされながらそれを読む事に耐えていた…それに全財産と全生涯を投じ、息を殺して見つめる母の歪んだ望みを叶える為…に。
しかしそのゲテモノに押し漬けにされて出来上がった人間は…迷走、無気力、決断力喪失、不遜、無礼、世間知らず、自信なく猜疑心強く、他人ばかり気になり、刹那的で厭世的、現実逃避的、そのくせヘイティーズ(地獄)のことばかり考えていた…。
青年に限りなく同情しながらも、又々表現し難い不快感におそわれていた私は、これに関する一切の思いを吐き出してしまう積もりで便所へ急ぎながら、「パーラットシンビーグンドール、等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間、皰、皰裂、アタタ、ハハバ、フフバ、青蓮華、紅蓮華、大紅蓮華、キリットシンビーハナヤーナキュー…」と、何処で覚えたか不気味な呪文を唱え続けておりました。