謎、雑感、総括




オープン選手権最大の謎は途中リタイアの選手が続出したことである。
レイス、大木、ローデス、ラシク、レスリング、ヘーシンク。
欠場の理由はレイスが10日岐阜大会ブッチャー戦での負傷、
ローデス、ラシク、レスリングが13日武道館・力道山13回忌大会での負傷、
大木は力道山13回忌、ブッチャー戦で勝利できなかったことが「力道山先生に申し訳ない」という理由。
ヘーシンクの帰国の理由は不明。
この6人に共通することは、

1.11日の武道館・力道山13回忌大会には出場している(レイスは負傷欠場のあいさつ)。
2.事前発表カードに12日鈴鹿大会以降のスケジュールがない。

―現在はどうかわからないがレスラーのファイトマネーは週単位での契約と聞く。
オープン選手権開幕戦・足立大会が行われたのは12月6日土曜。
11日の力道山13回忌は翌週木曜。
とすると、初めからこの6選手は11日までの契約だったと考えてもおかしくはない。
開催前の記者会見では「金に糸目はつけない」と言った馬場だったが、
実際これだけアメリカ各地のメイン・エベンターを集結させれば経費は上がる一方だ。
そこで夢のカード上位30傑の試合を考慮して1週単位の契約の選手を作り上げた。
華やかなメンバーで前半さえ豪華感を出せば
後半はどのみち優勝争いが大会の焦点になるから途中リタイアの選手がいてもそれほど問題ではない。
主催サイドがそう考えたかどうかはわからないが、11日までの契約だった選手がいたことは間違いないと思う。

【オコーナー、マツダの日程消化】
この6人とは逆に、11日の力道山13回忌から出場したのがオコーナー。
彼は10日岐阜大会以前の事前発表カードに名前がない。
11日から18日最終戦川崎大会までは8日。木曜から木曜だ。
週単位契約は1日増えても「2週」と数えるはず。
そうするとオコーナーは2週契約だったのか。
ちなみにヒロ・マツダも12月10日・岐阜までは事前発表カードなしで
欠場を考えなければオコーナーの消化パターンに近い。

【大木-ブッチャー戦】
夢のカード上位30傑は1試合をのぞいて公式戦内で全て実現された。
その実現されなかったカードは第6位の大木-ブッチャー戦。
11日武道館13回忌のスペシャルマッチとして行われた。
事前発表カードにもなかったことを考えるとこのカードは翌年以降に温存されたのかもしれない。

【大木】
その大木だが9日福岡、10日岐阜と試合がない。
6日開幕戦のマンテル戦以外は事前発表カードのみ。
私事か単なるカード編成での割り食いか、はたまたマッチメークの不満か。
7日川越で行われた公式戦大木-マードックは夢のカードファン投票第13位と人気が高いが
なぜこのカードがと今となっては首をかしげざるをえない。
10月30日、蔵前国技館で行われたばかりの馬場-大木は逆に上位30傑から漏れた。
いくら実現したばかりといっても馬場-大木が大木-マードックより投票数が低いというのは疑問。
もし公式戦で馬場-大木が実現していたら馬場の得点奪取は反則勝ちでもないかぎり至難の業で
(この短期間で大木に2連勝はないと思うので)、
大木との公式戦が実現しなかったことは馬場の優勝に大きく貢献していたと思う。

【メキシコ勢不参加】
国際色ということを考えるとメキシコからの参加選手がいてしかるべきだが
大物ミル・マスカラスはこの時期新興団体「IWA」の旗揚げに参加、ニューヨークでWWWFとの興行戦争の真っ只中であった。
小柄なルチャドールでは猪木迎撃に心もとない、と馬場が考えたかどうか。

【国際プロレス】
さて当時の日本ではIWAと言えば国際プロレスを連想させる。
国際プロレスの三人はオープン選手権参加に際して何らかのメリットがあったのか?
おそらく吉原社長が考えたメリットは「全国放送の電波に三人を乗せる」この一点ではなかったか。
当時の国際プロレスは東京ローカル局の東京12チャンネル(現テレビ東京)での放送だった。
かつてはTBSで全国放送された国際プロレスだったが昭和49年3月その放送も打ち切られ、
ほぼ同時期にエース・ストロング小林の離脱というダブルショックに見舞われた。
同年秋から東京12chでの放送が始まったが後発である2団体、新日本が猪木対元国際のS小林、同門の坂口、
韓国出身だが日本プロレス所属だった大木金太郎らとの画期的な日本人対決、
全日本は豪華な本場アメリカの一流選手の参戦、ザ・デストロイヤーの日本陣営参加、
アマレス出身の超新星ジャンボ鶴田、オランダの柔道王アントン・ヘーシンクのデビューなどで話題をまき、
国際のマイナー化は加速した。
そこで全国放送の日本テレビの電波に乗れば木村、井上、草津の存在がアピールでき、
自団体のテレビ中継、興行にいい影響を与えられると考えた。
そういう計算での参加ということもありうる、と思う。
だが木村がいくつかの会場でメインを張ったこと、開幕戦から数試合のあいだ単独首位に立ったこと、
井上が鶴田戦引き分け、武道館でのトリプルメーンでマツダとタイトルマッチを行ったということ以外は結構非情なマッチメーク。
草津はブッチャー、デストロイヤーに歯が立たず黒星連発。
木村はエースの意地を見せたいところだったが鶴田とは引き分け、対馬場戦ではブッチャーの乱入により不本意なフォール負け。
かえって格の違いを見せつけられた結果となった。

【グレート草津絡みの消滅した試合】
草津といえば先に述べたマツダとのタッグ消滅、オコーナーとの公式戦消滅などが謎の部分。
第11戦17日の千葉大会はオコーナーは出場しているが草津は出場すらしていない。
この場合はカードが当日の新聞で発表されているのだからオコーナーの不戦勝になるべきではないだろうか。
それとも草津は芳の里実行委員の言った「黒星続きで明らかに優勝戦線からはずれているという例」に該当する「成績不振の者」であり、
公式戦から除外する適用を受けたということか。

「消滅した草津-オコーナー戦」を調べていると、面白い記述を見つけた。
参考にしたベースボールマガジン社「プロレス」増刊号1976年1月、P55に以下の文章が。

(前略)集計の結果作成されたランキングと、夢の対決上位30カードは、
十一月二十六日に、最終日までの選手権戦の主なカード(全六十七戦中四十二戦)と、
大会参加選手によるタッグ・マッチの組み合わせと併せて発表された。(後略)

この文章は馬場がオープン選手権に優勝するまでの波乱の軌跡と称して
このコラムのベースにもなった大会開催までの経過と前半戦までの馬場の活躍を中心に書かれたもので、
この部分はいわゆる「事前発表カード」についてのものである。
どうも雑誌の締め切りなど考えると大会進行中に書かれたものと考えるが、
すでに公式戦が「全六十七戦」と決められていたかのような記述である。
この公式戦「全六十七戦」とうち主なカード(事前発表された公式戦)「四十二戦」だが
カウントしてみると

 6日7日8日9日10日12日13日14日15日16日17日18日合計
事前発表された公式戦数44343333434442
実際に行われた公式戦数67776444655566

実際に行われた公式戦数は書かれている「全六十七戦」に「1」満たない66試合が行われたが
この不足の1試合こそ行われなかった「草津-オコーナー戦」なのではないか。
またこの一文がシリーズ終了後に書かれたものではないことが間違いなく証明されれば
全ての対戦カードが事前に決まっていたことの有力な証明となりまた途中リタイアの選手も
初めからシリーズ途中までしかカードが決まっていない、定められたリタイアだったことの証拠となりうるが
決定的な証拠はなく文面などからの推理の域を今のところ脱せない。

開催された時期というものを考えると、
A.T.ブッチャーが第4回チャンピオン・カーニバルで初優勝して悪役人気に本格的に火がついたのは次の年の昭和51年。
その次の年の昭和52年12月の「オープン・タッグ選手権」では蔵前国技館での公式戦最終戦、
対ブッチャー、シーク組戦においてザ・ファンクスの人気が爆発。
ジャンボ鶴田がインターナショナル選手権を初奪取するのがそれからまた6年後の昭和58年8月。
つまりはオープン選手権が行われた昭和50年は全日本も創立3年目。
まだまだ馬場が全日本のメインを一手に引き受けていた時代であった。
その馬場がエースたる証明、プロモーターとしての実力を内外に誇示し
さらに猪木の挑戦問題にも自分なりの回答を示し一応の決着をつけた
(猪木は翌51年からM.アリ戦を頂点とする「格闘技世界一決定戦」をスタートさせ馬場とNWA世界王座への挑戦問題は棚上げになる)
意義のある大会―それがオープン選手権だったといえよう。

(2004.0805)

参考
月刊プロレス ベースボールマガジン社
月刊ゴング 日本スポーツ出版社
東京スポーツ
日本のプロレス30年史 ベースボールマガジン社 1981年
日本プロレス52年史 日本スポーツ出版社 2003年7月
DVD 闘魂伝説アントニオ猪木 VAP 2004年
スポーツグラフィック「number」5 文藝春秋社





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