「ポルノ時代劇 忘八武士道」“大霊界”丹波哲郎と“アンヌ”ひし美ゆり子の濃いー絡み

ポルノ時代劇 忘八武士道 [DVD]

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昭和48年 東映京都
監督:石井輝男
原作:小池一雄 小島剛夕
音楽:鎬木創
出演:丹波哲郎、伊吹吾郎、ひし美ゆり子
<あらすじ>
「生きるも地獄、死ぬも地獄・・・」
役人に追われる剣の達人・明日死能(あしたしのう=丹波哲郎)は
忘八者の元締め・白首の袈裟蔵(伊吹吾郎)に命を救われ、
吉原遊廓の総名主・大門四郎兵衛(遠藤辰雄 )の客分となる。
大門の依頼で吉原遊廓と対立する茶屋、湯女に乗り込んで
これを壊滅させるために茶屋の客や用心棒らを斬りまくる。
公儀は死能を倒すため黒鍬者を派遣。
吉原と茶屋の力による対立が激化する。


*原作の劇画は読んでいませんので間違った解釈があるかも知れませんがご容赦を。
07年1月21日、渋谷のシネマヴェーラで見る。
06年惜しくも逝去した丹波哲郎が主演・石井輝男監督のカルト時代劇。
といいますか現在ではこの映画を見たがる人の多くが
「ウルトラセブン」のアンヌ隊員がはまり役だったひし美ゆり子さんの裸が目的なのでないかと思ってしまう。
そのぐらい裸での出演部分が多い。
しかし映画はその他にも見せ場が多い。

オープニング、橋の上での斬り合いを制した明日死能は奉行所の捕り方約二十人に囲まれ、
川に飛び込んで逃走する。
「死んでいくのが地獄なら、生きていたとてまた地獄・・・
死に行くように水没していく死能。
だがあわや水死するところを忘八者の元締め・袈裟蔵に命を救われる。
気がついた死能の第一声「余計なことをしたぜ・・・
死能はその名のとおり死にたがっているのか?この件は後述するが。
忘八者とは八つの人としての道を忘れた外道として生きる者たち、
吉原遊廓の管理を任されているらしい。
そして袈裟蔵は死能を一旦客分とし、忘八者の仲間になれと言う。
吉原遊廓で客をもてなす女を調教するさま
−吊るして縄で打ったり局所にろうそくの火を近づけたり−を死能に見せる袈裟蔵。
死能は袈裟蔵に「人間の皮をかぶったけだもの、虫唾が走るぜ・・・俺を見ているようでな」
と、あたかも自分は忘八者と同類であるかのように答える。

借金のカタに、ひし美ゆり子さん演じる娘を吉原に連れてゆくために
死能は忘八者の姫次郎(久野四郎) と共に長屋を訪れる。
長屋のおばさんに水ぶっ掛けられる姫次郎、
「忘八者は(金銭の)損得にかかわりのないことには怒りもしないし笑いもしない」
といってるわりには始終笑ってるキャラ。

長屋の襖を開けると仏壇の前日本髪に着物姿で座すゆり子さん、長い睫毛、細い眉、大きな瞳。
「無礼な・・・」ゆり子さん、取り押さえようとする姫次郎を振りほどく、しかし死能登場。
死能と対峙すると、ゆり子さん威圧感に押されたかはさみを自分の喉元に突きつけて抵抗、
「それ以上近寄ると・・・死にまする!」
しかし死能が刀を一振りすると、着物がはらりと切れて落ちゆり子さんたちまち全裸。
「あっ・・・
かすかな恥じらいの声と共に手で胸と腰を隠してしゃがみこむゆり子さん。
「武士の情けをお忘れか」
としゃがみこんだまま強気に死能を見据えるが、手で隠している胸からは豊かな乳房がこぼれている。
再び姫次郎がゆり子さんに襲いかかり、胸を揉んだり秘部に手をやったりしながらゆり子さんを押さえ込む。
姫次郎に猿ぐつわをかまされ、連れて行かれるゆり子さん。
ここまでのシーン、ひし美ゆり子さんの恥じらいの演技が大変エロティック(註1)。

ゆり子さんは初物ということで裸で手足を広げて縛られた姿でせりに掛けられ、
死能がその日の日当五十両で落札する。
死能はゆり子さんに情けをかけたか手をつけなかった。
しかしこれは「人形試し」と言われる忘八者の仲間になるためのいわばテストで、
長屋の住人は全て芝居小屋の役者、ゆり子さんはお紋という名の「女忘八」だった。
ということで長屋での恥じらいの演技は劇中でのまた演技。

「人に情けをかけるようでは、忘八者の仲間にはなれませんね」お紋は死能に言う。
お紋と名乗った時のゆり子さん、眉の端をつり上げて笑う表情は
長屋での場面での恥じらい、あるいはセブンのアンヌといった清純な役どころとは全く対極の毒々しいまでの色気!
こういう使い分けが出来るところに実存のゆり子さんの演技の幅の広さを感じる。
しかもおっぱい丸出し。

さらにお紋の着物をもってきた年増女が
「聞いちゃいられませんでしたねえ、『生きるも地獄、死ぬも地獄』、
粋なことおっしゃられていましたけど、間が抜けてましたねえ、
おへそがむずむずしちまったよ」
と追い討ちをかけると、さすがに死能怒りを隠せず抜き打ちで年増女の着物を斬り、
さらに一刀の元に彼女の耳を切り落とす、流れる血。
駆けつける忘八者たち。
先に出た「忘八者は損得にかかわりのないことには怒りもしないし笑いもしない」の掟を守れなかった死能は廓から追い出されるが
ここで遊廓の総名主・大門(おおもん)四郎兵衛が現れ、再び死能を廓の中に招き入れる。
川に飛び込んだ死能を袈裟蔵に命じて救ったのは大門だった。

大門は死能に、吉原に対抗して女を売る茶屋(茶屋遊びの客には武士が多い)と茶屋側に加担する武家人を斬ることを依頼し、
「鬼庖丁」と呼ばれる二代目首切り浅右衛門が使っていた大刀を渡す。
死能は茶屋に乗り込んで武士を斬り続けるがその間に役人をも斬ってしまったので
幕府は黒鍬者(くろくわもの=同じ作者の「子連れ狼」にも登場する忍者のような公儀の密偵)によって死能を殺害しようとする。

夜道を歩く死能と姫次郎を町民に変装して待ち構えていた黒鍬者、地面に油を撒き散らして火を放つ。
離れ離れになって火に囲まれてしまった死能と姫次郎、そこに勇ましいBGMと共にお紋ら女忘八たちが登場。
顔を布で覆うと火の上をゴロンゴロン転がっての消火活動。
死能が小柄で着物を切り開くと、中から全裸のお紋が。
起き上がるお紋、別の女の元へ行き着物を切り開く。
「熱の作用が皮膚に及んでおります。熱を取るには、水で冷やすのが一番」
と言って次々に焼けた着物を切り開いて中から現れる全裸の女忘八たち。
刺子防着と水白粉(みずおしろい)で防火対策をしているそう。
脇の防火用水を桶でじゃばじゃば浴びて夜の行水、体の熱を冷やす。
・・・って言うか、地べたを転がらずにその水を撒いて火を消した方が危険ではないんじゃないのかな?(笑)
油の火だから水じゃ消えない、という意見もありそうだが。

さて、死能は無事だったが姫次郎は全身やけどで虫の息。
「医者を呼べ」お紋に言う死能、しかしお紋は無表情で「無駄だと思います」冷たい。情のないのは女でも忘八者だからか。
結局姫次郎は死能の腕の中で息絶える。
死能と姫次郎はここまでほとんど会話らしい会話のシーンはないのだが、
パートナー的役割で逐一忘八者のセオリーを説明してくれていた姫次郎に死能は友情的な感情を持っていたのかも知れない。
瀕死の仲間を見捨てようとする忘八者と、少しでも命を救おうと考える死能とのスタンスの違いが明確化されるシーン。
医者を呼びに一足先に帰るお紋、ここまでのシーンでゆり子さんの立ち姿での裸が見られる。
去ってゆく後ろ姿、夜の闇に映える白い背中、ぼったりとしたむかしの日本人的なお尻が魅力的。

でお紋は帰っても医者を呼ばずに、何故か唐突に縛られている白人女性を責める。
顔を高潮させて白人女性の体を舐めまわすお紋。
薄ら笑いを浮かべて女に悲鳴を上げさせるお紋、ゆり子さんの強烈な演技。

吉原と茶屋の抗争は女の奪い合いから武力による決着を迎えそうになるが
老中が直々に裁決することとなる。
裁決は茶屋の営業を廓の門の外でも許可する代わり、全権を大門が掌握する。
そして役人を斬った死能を、大門が片付けるという条件付きだった。

大門はお紋に死能の酌をさせ、阿片入りの屠蘇を飲ませる。
しかし死能はそれと判りながらもその酒を口にする。
やがて女忘八による「骨皮責め」が行なわれ(阿片とエッチな責めによって体力を消耗させる)、
死能の体力は奪われる。
しかし死能は逆襲、大門を廃人に追い込む。
この時、反撃に出たお紋を含む女忘八、全員あっけなく死能の鬼庖丁の餌食となる。
大門の後は袈裟蔵が取り仕切ることとなり、死能は半死半生で廓の外に追い出される。
廓の外は大捕物、五十人以上の御用提灯が死能を待ち構える。
ここからはラストの見せ場、降りしきる小雪の中で丹波哲郎の大チャンバラ。
体力消耗し阿片による幻影に惑わされながらも多勢の捕り方に死能一歩も引かず斬りまくる。
斬られた捕り方の手足、耳、生首が勢いよく宙を飛ぶ!
普通斬られた体の一部は重力の法則に従って地に落ちると思うのだが、
ここでは勢いよく飛ぶ、飛ぶ!
特に生首が飛ぶシーンは同監督の「恐怖奇形人間」のラストを思い起こさせるほどの飛びっ振り!
まさにスプラッターチャンバラ。

さて、明日死能のスタンスとはどういうものなのか。
「死に場所を求めて斬りまくる」これか。
だが安易に首をとられるような方向ではない。
抗いながらの死を求めているようだ。
阿片での責めもむしろ容認するような素振り、彼には手ごろなハンディキャップぐらいの考えなのかも知れない。
しかしながら情けを忘れた忘八者たちとは明らかなギャップが生じている。それが
1.「人形試し」失格のくだり、お紋を女忘八と知らず情けをかける。
あるいは年増女への怒りの表現。
2.姫次郎の死のシーンでのお紋との見解の違い。
などで表現されていると思う。

原作が劇画の映画ではあるが、タイトルに「武士道」が謳われている。
江戸中期の書「葉隠」にはあまりにも有名な一文、
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」が記載されている。
本来この一文は死を美化するものではなく、主君への忠義、
あるいは武士たるものは常に「死」を意識して行動するものである、と説くものであり
死能の武士道はこの一文を曲解・強調しているのだろうか。
忘八者たちと、時には情けを見せる死能のスタンスの違いを考えると
この映画の正しいタイトルは「忘八武士道」なのかも知れない。

(2007.0210)


註1:しかしゆり子さんの裸の背中には時代劇なのに水着の日焼けの後が(笑)、まあご愛嬌。

(追記)同監督の1999年作品「地獄」で明日死能が再登場していることが判明、しかも丹波先生が再演。
詳細は確認後こちら



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