No.186
アクラム・ペールワン、太陽王の一族
そして1976年12月12日カラチ、ナショナル・スタジアムでの様々な謎


↑いずれも別冊ゴング昭和52年2月号より

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↑猪木‐アクラム戦収録のDVD。

1976年12月12日、
パキスタン・カラチのナショナル・スタジアムで有料入場者数約5万人を集めて行われた
アントニオ猪木対パキスタンのレスラー、アクラム・ペールワンの一戦は
3ラウンド1分5秒、猪木のアームロックによりアクラムが左腕を脱臼したため
ドクター・ストップで猪木の勝利となった。

当地の英雄と目されている選手のあまりの凄惨な結末に、
アクラムの兄アスラムが猪木と対戦する第2戦は中止となった。
この試合を節目としてパキスタンのプロレス興行が衰退してゆくという話、
そしてこの試合から数年後にアクラムがこの世を去ったという事実、
一族の代表として76年は少年だったジャラ・ペールワンが猪木の首を狙い続けたという話は
プロレスというジャンルを越えたストーリーのように感じられる。

Number 539・540号の猪木の特集でアクラムの一族のことが書かれている(のち「1976年のアントニオ猪木」を発表する柳澤健氏の文章)。
76年(日本の年号だと昭和52年)当時の猪木対アクラム戦時には報道されなかったが
パキスタン現地で取材したこのNumberによると
アクラムを含むボロ・ブラザーズはかつてのインドレスリングの王者、グレート・ガマの末裔ということらしい。
グレート・ガマは1920年代にベンジャミン・ローラー、スタニスラウス・ズビスコらと対戦した伝説のレスラー。
1926年にラホールで行われたガマ対ズビスコ戦は秒殺でガマが勝ったといわれている。
そしてボロ・ブラザーズはそのガマの弟でやはりレスラーだったイマン・バクシ(イマン・バックス)の息子たちなのだそうである。
アクラムに代表されるボロ・ブラザーズが「太陽王」グレート・ガマの末裔であったという事実は専門誌サイドの文章で確認した記憶がない。
この一族はムガール帝国(1526〜1858)の時代から当時の権力者のお抱えで職業力士として培われていた一族だったということだ。
インドからパキスタンが独立した後もパキスタン政府の保護のもとでパキスタン国内で一大プロレス王国を形成していたらしい。

週刊プロレス654号の流智美氏によるG.ゴーディエンコへのインタビューではゴーディエンコがアクラムと対戦した時の様子が。
「たしかワケのわからないうちにアクラムの兄弟が乱入してきて反則負けを取られたんだ。
いずれにしても恐ろしく上半身が強い奴でね」
アクラム側は「ルー・テーズにも勝った」と公言していたが鉄人との対戦はなかったよう。

猪木とアクラムが戦った76年12月12日カラチの興行では
当時日本の報道ではセミで行われた永源対ゴガの試合以外は全く報じられなかったが
前述のNumber 539・540号にはこのような記述がある。

「そして12月12日、ナショナル・スタジアムに集まったおよそ4万の観客の注目は、
メインの3試合に登場するボル・ブラザーズに集まっていた。
アメリカのレスラーと対戦する長兄ボルの息子で後継者のナッシル、(後略)」

ボロ一族はメイン(猪木対アクラム)、セミ(永源対ゴガ)、セミ前の3試合に登場したということだ。
そして試合前の記念撮影では着衣のボロ一族アクラム、ゴガ、ナッシル、
英国人レフェリーのウイリアム・オリグ(髭ともみ上げが特徴的)、
彼らと並んで、頭に民族特有の羽飾りをつけ、
サイケデリックなショート・タイツをつけた謎のインディアン(ネイティブ・アメリカン)レスラーの姿が確認できる。
彼こそが当日のセミ前にナッシルと対戦した文中の「アメリカのレスラー」であることは間違いないだろう。
写真で見るそのレスラーは白人ではなくモンゴロイドの顔立ち。
目と鼻の形は昭和54(1978)年の全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」に初来日したフランク・ヒルに似ているが
並んでいるアクラムやゴガよりも背が低く、最強タッグでパートナーとなったワフー・マクダニエルより大きかったヒルにはそぐわないよう。

さてネイティブ・アメリカンのレスラーの正体暴きは置いておいて、
猪木対アクラム戦はなぜアクラムの脱臼という凄惨な結末を迎えることになったのか。
この一戦についてのいろいろな文献を読むと、アクラム側が試合直前になって猪木側に「ノールール宣言」を通達してきたということらしい。
おそらくアクラム側は、世界中に衛星中継され招聘のきっかけとなったはずの猪木対モハメッド・アリ戦を見て、
あの「世紀のスーパーファイト」の、舞台裏での駆け引きや猪木がアリ側に強要されたがんじがらめのルールを知らずに
「猪木はボクサーのアリを相手に、寝てばかりいる臆病者だ、大したことはない、我々が勝つ」と考えたのではないだろうか。
「呼んでリングに上げてしまえば、あとはどうにでも料理できる、アリ戦で世界的に名を売ったレスラーだが、ノールールと聞いたらびびるだろう、我々の勝ちだ」
アクラム側はアリ戦での猪木しか知らなかったのではないだろうか。
ところが猪木は臆病者ではなくカール・ゴッチ直伝の関節技の達人だった・・・。

そして試合は行われた。猪木はアクラムがリング登場してから7〜8分後にリングインしたそうだ。
巌流島の武蔵の作戦か。
1Rで腕ひしぎ逆十字を決めた猪木だったが
ギブアップしたかどうかも分からないまま試合は続行された。
どうやったら決着がつくのかわからない袋小路に追い詰められた猪木は2R、
サミングでアクラムを戦意喪失状態にさせる。
アクラムも猪木に噛み付いたようだがどちらが先にやったかはわからないとされ、試合続行。
3R、猪木はアクラムをグランドに引きずりこみ、ローリングしてのアームロックを決める。
一族の意地か、ギブアップしないアクラムに対して猪木が腕に力を入れて攻めると、アクラムの左肩は脱臼した。
騒ぎになりアクラム側のセコンドが抗議したが、リングサイドを取り囲んでいる小銃を構えた軍隊の兵士たちには逆らえなったようだ。
この一戦で猪木はパキスタンで英雄視されるようになり、逆にボロ一族は衰退する。
四男アスラムと猪木との第2戦は中止になり、12月19日はテレビ用のエキジビジョン収録。
帯同していた藤原と小沢のラウンド制マッチ、猪木のレスリング技の披露(相手は永源!)が行われた模様。

79年6月、猪木が再びパキスタンを訪れた。
ラホールで猪木対ジュベールの試合が行われたがフルラウンド戦って引き分け(5R説と10R説がある)。
一族は復讐を果たすことができなかった。
パキスタン国内は80年代から独立派ゲリラによる内戦が多発し、政府は一族を支援する余裕を失っていった。
84年、猪木は初めて単独ではなく新日本プロレス一行としてパキスタン遠征、藤波、長州、B.アレン、カネック、B.クラッシャーなどを連れてパキスタン各地を転戦して回った。
ジュベールはこの時再度猪木に対戦を希望し、すごく重そうな巨大な鉄製の鍬(くわ)のような道具で地面を掘り続けるトレーニングを日本から来た報道記者に披露。
しかし全盛時を過ぎ、体のあちこちに故障を抱えた猪木がこの若く馬力のある危険な男の仇討ちを受けて立つことはなかった。
91年、ジュベールは31歳の若さで死去、ヘロイン中毒による心臓麻痺、とある。
一族の復讐を遂げるという使命がジュベールに重圧を与え、彼は若い頃からヘロインやアルコールに手を出していくようになっていたそうだ。
現在もジュベールの息子モアザン、ゴガの息子トニらはラホールのジムで毎日トレーニングを行っているそうだ、
年に一度行われるパキスタンの国内トーナメントのために。
しかしNumber 539・540号に掲載されている彼らの写真を見ると体格的に普通の人に見える。
彼らは小さな両替店で働いているそうだ。
数百年国王の保護の下栄光を極めたレスラー一族は、日本からやってきた一人のレスラーとのたった一試合での敗北で、坂を転げ落ちるように衰退していった。
それは時代の趨勢だったのか、それとも日本から来たあのレスラーの超越した人間力のなせるわざだったのか。

(2005.0312)

追記:週刊プロレス平成18年別冊冬季号「ザ・レトロマニア」には流智美氏による新事実として
1963年のブッチャー・バション&バロン・フォン・ヘッシーのパキスタン遠征について書かれている。
ブッチャー・バションは「アザムやゴガをスープレックスで破り、アクラムとは引き分けた。
アスラムとの試合はラホールのスタジアムに8万5千人集めた」そうである(「」内記事)。
10月18日にはB.バション&ヘッシー組対アクラム、ゴガ組のタッグマッチが行なわれた模様(同記事にプログラム写真掲載)。
B.バションの兄弟評は「皆タフな相手だったが、伝説となっている程の実力者ではなかったと思う」
「ケタ外れの過大評価だ」だそうである(「」内記事)。
弟B.バションの遠征でよかったのだろう、兄マッドドッグ・バションが遠征していたら
猪木戦より早く惨劇が起こったかも知れない。
(2007.0430)

追記:那嵯 涼介氏の好意により
'54年の○アスラム・ペールワンVSバート・アシラティ●の試合結果。
(2008.1025)

第一世代
●兄グレート・ガマ(或いはモハメッド・ガマ)1886?‐1959 73才で没
 1920年代にベンジャミン・ローラー、スタニスラウス・ズビスコらと対戦、生涯不敗とも

●弟イマン・バクシ(イマン・バックス)

第二世代
*イマン・バクシの息子たち
●長男ボロ(ボル)1922‐85 63才で没

●次男ハッサン・バクシ(レスラーではない)

●三男アザム 1925‐91 66才で没
 63年ブッチャー・バションに敗れる

●四男アスラム 1927‐89 62才で没
 54年6月3日、バート・アシラティに勝利(ボンベイ 観衆4万人)
 63年ブッチャー・バションと対戦(ラホール 観衆8万5千人、勝敗不明)
 76年12月、猪木戦が中止 
 56年にはアメリカのビル・バーンという選手と対戦して
 ベアハッグで背骨を折ったという(前掲Number 539・540号より)

●五男アクラム 1931‐87 56才で没(糖尿病)
 63年ブッチャー・バションと引き分け
 63年10月18日、B.バション&バロン・フォン・ヘッシー組とタッグマッチで対戦(勝敗不明)
 76年12月12日、カラチでA.猪木と対戦、左肩脱臼によるレフェリーストップ負け
 猪木戦以前にG.ゴーディエンコとも対戦した模様

●六男ゴガ(ゴガバナ)1937‐81 44才で没
 63年ブッチャー・バションに敗れる
 63年10月18日、B.バション&バロン・フォン・ヘッシー組とタッグマッチで対戦(勝敗不明)
 76年12月12日、永源と対戦してフォール勝ち

*ガマの9人の子供は45年までに全て死去。

第三世代
●ナッシム 1961‐
 ボロの息子 76年12月12日はアメリカのネイティブ・アメリカンのレスラーと対戦(勝敗不明)
 現在カラチでジム経営

●ジュベール(ジャラ)1960‐91 31才で没(ヘロイン中毒による心臓麻痺)
 アスラムの息子 79年6月17日、猪木と対戦、フルラウンド引き分け

●トニ  1981‐
 ゴガの息子

第四世代
●モアザン 1985‐
 ジュベールの息子

参考:月刊プロレス 昭和52年2月号 ベースボールマガジン社
週刊プロレス 654号 平成7年2月 ベースボールマガジン社
スポーツグラフィックNumber 539・540号 
「あるペールワン一家の栄光と没落。
そして日本から来たスーパースター」文:柳澤健 平成14年1月 文藝春秋
「プロレス、至近距離の真実」ミスター高橋 1998年講談社
週刊プロレス平成18年別冊冬季号「ザ・レトロマニア」 ベースボールマガジン社
「バート・アシラティ・レコードブック」(ドイツのプロレス史家ゲハルド・シェーファーによる)情報提供:那嵯 涼介

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↑'10年you tubeに発表された猪木vsジャラ・ペールワンの試合映像分析の記事あり。




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