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夢のカード上位30傑中1試合にエントリー、上位30傑出現率3.3%。
公式戦3試合中1試合が夢のカード上位30傑、夢のカード率33.3%。ただし途中帰国。
メイン出場なし。
全日本プロレス代表(ジャイアント馬場推薦)、元柔道世界選手権者、東京オリンピック柔道無差別級金メダリスト。
日時場所 | 星 | 公式戦 | *1 | *2 | *3 | 試合順 |
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12月 6日・足立 | ● | D.L.ジョナサン(リングアウト、8:00) | 14位 | 20位 | 6 | 9-4 |
12月 7日・川越 | 試合なし | |||||
12月 8日・呉 | ▲ | K.マンテル(両者リングアウト、8:12) | 19位 | - | 1 | 10-3 |
12月 9日・福岡 | ● | D.マードック(リングアウト、10:09) | 12位 | - | 8 | 9-2 |
12月10日・岐阜 | ○A.ヘーシンク、G馬場(エビ固め、17:26)D.F.ジュニア、H.ホフマン● | 9-6 | ||||
12月11日・東京 | ○(首固め、9:40)K.マンテル● | 11-4 | ||||
12月12日・鈴鹿 | 以後欠場、帰国 | |||||
12月13日・福井 | ||||||
12月14日・米沢 | ||||||
12月15日・仙台 | ||||||
12月16日・長岡 | ||||||
12月17日・千葉 | ||||||
12月18日・川崎 |
この大会が柔道王背水の出陣だったのか。
昭和48年、鳴り物入りで日本プロレス界にデビューしたヘーシンクもこの頃は
プロレスになじまない試合が続いて全日本のお荷物的存在。
思い切って昭和42年ごろ日本テレビのプロデューサーが企画し
年末の紅白歌合戦に対抗させようと画策した「馬場対ヘーシンク(註1)」を実現させるわけにはいかなかったものか。
また百歩譲ってブッチャーとの対戦というような斬新なマッチメークにとどかなかったものか。
ブッチャーの軍門に下った後は悪党派に転向して黒か青の柔道着で登場、とか
(のちにIOC委員となったヘーシンクは柔道国際大会でのカラー柔道着使用の推進派となる)。
幻想が広がる柔道王ではあった。
10日岐阜のタッグでドリーの入ったチームと対戦してヨーロッパの帝王ホフマンからピンフォールを奪っているのは驚き。
パートナー馬場のインサイドワークの賜物だったらしいが。
註1:「BABA BOM-BA-YE」、あるいは早すぎたサップ対曙が実現しようかとしていたということである。
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