No.62
真夏の夜の夢8・26、馬場・猪木組復活・ブッチャー試合始まる前から流血!「プロレス夢のオールスター戦」


↑別冊ゴング昭和54年9月号増刊より

「プロレス夢のオールスター戦」 1979(昭和54)年8月26日 東京・日本武道館
同行者=なし

この大会の半券の画像使用許諾はいただけませんでした。


もう説明の必要がないぐらい有名な「8・26」である。
当時高校生だった筆者は前夜から興奮していて当日は試合開始が夕方からだったにもかかわらず
しかも指定席があったにもかかわらず午前中には武道館に着いて、石段のところで座っていた。
藤波選手の会場入りを見た。夏だというのにスーツにネクタイ。ことのほか着膨れしていたように見えた。
会場入りした後のことだが同時期に開催されていた全日本のシリーズに参加していたボボ・ブラジルらブラックパワー陣が見物していた。

第一試合のバトルロイヤルは後年当てはめてみると超豪華な組み合わせで前田とかいたりする。
若手のバトルロイヤルと銘打っていたはずなのに小鉄のバトル参加は少々反則気味だと思ったが、案の定優勝。
第二試合、荒川と戦った国際プロレスのスネーク奄美。彼はこの後脳腫瘍で死去するため彼の試合は最初で最後の観戦となったわけだが
体の柔らかさ、独特のバネとまったく驚かされた!こういう表現はどうかとも思うが、人間技ではない!
荒川が仕掛けた関節技を抜けるときの動きもすごくスムーズでスルリ、あるいはヌルリといった感じで抜ける。
確かにリングネームのように蛇みたいな動きというか、たことかの軟体動物のそれを連想させた。
空中戦もなかなかのもので女子プロレスのジャガー横田と
初代タイガーマスク佐山サトルの動きを足して2で割ったような感じだった(スネークとジャガーとタイガーか、全部動物じゃん)。
体格からいってもライトヘビー級以下で、軽量級が日の目を見なかった時代に生まれた悲劇の人、といえようか。
対する荒川も熱の入ったファイトで会場を沸かせた。最後はバックドロップからヒップドロップで奄美をフォールし3カウントが入るとガッツポーズを取ったが、
自分も頭を強打していたのかその場でへたり込んでしまった。オープニングとしては最高の「鹿児島選手権」であった。

第三試合。星野とM井上はIWA世界タッグを争っていた時期があったのだが勝ち名乗りを受けても何かソッポを向いたような感じで顔すら見ない。
井上選手が新日本嫌いだというのは本当なのだろう。しかし試合中はさすがプロ、井上も星野も持ち味を出し合って、いいコンビネーションを展開していた。

第四試合の6人タッグは木村健吾が一人で明るかった。逆に藤原はまだまだ暗かった。
阿修羅原はまだジュニアヘビーの時期だったか。キャリアのなさが露呈されて集中攻撃を食らっていた。最後の3カウントは微妙。

第五試合タッグマッチでまたまた「運命の糸」に遭遇。のち維新軍として暴れまくる長州とアニマル浜口の初タッグ結成だ。
馬力、テクニックで極道コンビを寄せ付けず。
っていうか小鹿って非力だよなあ。

第六試合、坂口の強さは圧倒的で新進気鋭のロッキー羽田は問題にならなかった。アトミックドロップでフォール勝ち。
羽田も帰国当初は鶴田と組んでのタッグマッチで、
バロン・フォン・ラシクのブレーンクローで血だるまにされながらもファイト見せて向かっていったりしたことがあり、
一時は天龍以上に期待されていたはずだ。このころすでに体調が悪かったのか。

第七試合はマスカラスが一人で目立とうとしたからか?集中攻撃をかけられていたが、鶴田も藤波も積極的に助けに入らなかった(笑)。
戸口はキム・ドク→戸口正徳→タイガー戸口と改名の連続だった時期であり
また海外で短期間ながらコンビを組んでいた斉藤と高千穂の中に入っていけなかったか何かちぐはぐなファイトだった
(試合終了後の乱闘でも斉藤や高千穂が相手に向かっていくのを確認してから参加していた)。
高千穂はご存知のとおりその後ザ・グレート・カブキに変身。この日の試合では得意のアッパーカットと斉藤から伝授されたのか
相手の腕を巻きこんでのバックフリップを見せていた。
藤波は相変わらずピッカピカのかっこよさ。鶴田は相手チームに全日本の選手が多かったせいかあんまり真剣そうではなかった。
それでも鶴田と藤波のダブルドロップキック、そしてそこに仮面貴族を加えて実現したトリプルドロップキックは大会の華。

セミファイナルのシングルマッチ、R木村対S小林新旧国際プロレスエースの一戦は
試合前に両者が向き合った時点で体の張りというか厚みといったものに現在エースの木村と新日本四〜五番手の小林の差が見て取れた。
木村が小林に頭突きを仕掛けると小林はコーナーに駆け出して、
ものすごい勢いでコーナーマットに自分の頭を打ち付けて観客にアピールしていた。しかしそれを見た筆者は、理由はわからなかったがなんだか悲しくなった。
結果は場外戦の後間一髪のタイミングで木村が滑り込んでのリングアウト勝ち。
しかし小林の体もぎりぎりで入っていたようにも見え、
レフェリーが木村側・国際の遠藤光男だったこともあってか、観客がいっせいに足を踏み鳴らして抗議を始めた。
やはり全国ネットの新日本を見ているファンのほうが多いということだったのだろう。
観客の靴音は武道館の大ホールに異様な響きを奏でていた。

メインエベントはすでに伝説化されているか。
馬場、猪木のBI砲一夜限りの復活。
相手は初結成のブッチャー、シンの最凶悪コンビ。
ブッチャーは試合前のセレモニーの最中、関係者が贈呈する予定だった額縁に入ったものをチョップで叩き割った。
しかしその額縁のガラスの破片で手を切ったらしく、その後試合開始までの間セコンドに包帯を巻いてもらっていた。
当時の写真でも何でも見て御覧なさい。ブッチャーの手に巻かれた包帯、そしてそこににじんでいる血を確認できるはずだ。
シンは馬場の巨体に圧倒されたか、いつもほどの狂乱ぶりではなかった。
馬場が出した技は16文キック、チョップ、猪木とダブルでシンに掛けたアームブリーカー、あとはブッチャーが隠していたフォークを逆に奪っての
グサ、グサ、グサ。
しかしそれでも馬場は十分な存在感。
シンに放った16文キックにはこの大舞台であるというのに余裕すら感じた。
逆に猪木は技出しまくり。
ブッチャーに延髄斬り、ブレンバスターと大サービス。
猪木が一番派手に動いていた印象。
最後はシンのブレンバスターを空中で切り替えしてバックに回った猪木の逆さ押さえ込みが決まり、世紀の一戦の幕は閉じた。

試合終了後、猪木がマイクを取って「馬場さん、今度リングで会うときは二人の戦いのときだ」
そういう内容のことをアピール。すると馬場もマイクで「受けるよ」と短く言った。
いよいよ実現するのか、馬場対猪木戦!当時はそう思ったものだ。
しかし両雄はこの日から二度とマット上で再会することはなく、約20年後の1999年1月31日馬場は鬼籍に入ることになる。
実現しないでよかったかもしれない。

(1984年6月ごろのノートを元に再構成、2003・0831)

追記:「9/10,143の邂逅」執筆に伴う大会開催の経緯
東京スポーツ新聞社が創立20周年記念事業として企画。
79(昭和54)年5月頃3団体の代表を一堂に集めて会談。
険悪な馬場と猪木の仲を国際・吉原社長が取り持つ形で実現に至ったらしい。
(2004.0812)

東京スポーツ「プロレス夢のオールスター戦」
1979(昭和54)年8月26日 東京・日本武道館
観衆1万6500人(超満員)

1.バトルロイヤル(19人参加)時間無制限
山本(カナダ式背骨折り、12:14)大仁田
参加選手:
全日本=越中詩郎、淵正信、園田一治、大仁田厚、伊藤正雄、百田光雄、肥後宗典、ミスター林
新日本=前田明、平田淳二、ジョージ高野、斉藤弘幸、魁勝司、小林邦明、山本小鉄
国際  =米村勉、デビル・ムラサキ、若松市政、高杉正彦

2.20分1本勝負
荒川(片エビ固め、8:26)S.奄美●

3.20分1本勝負
星野、M.井上(エビ固め、12:32)石川木戸

4.30分1本勝負
○原、佐藤昭木村健(エビ固め、16:22)永源藤原、寺西●

5.30分1本勝負
長州、A.浜口(反則、11:08)小鹿、大熊

6.45分1本勝負
坂口(体固め、6:34)R.羽田

7.45分1本勝負
○M・マスカラス、J.鶴田藤波(体固め、14:56)T.戸口高千穂、M斉藤●

8.60分1本勝負
○R.木村(リングアウト、14:56)S.小林

9.時間無制限1本勝負
A.猪木G.馬場(逆さ押さえ込み、13:03)A.T.ブッチャー、T.J.シン●


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