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作家より 梅田英俊

『凡 百 展』に寄せて 〜落書きの頃1・2・3〜(2008年4月)

 全てを放り投げてでも子供マンガの描き手になりたかったのです。丁度あの頃はこの分野が全盛時代を迎えようとしていて沢山のマンガ家がいろいろな雑誌等で大活躍しており、でも私には手塚治虫という大巨塔以外は一切目に入らず、中学・高校時代の私の心と時間は総て手塚治虫一色でした…。器用や勘、手慣れだけでやっていては早晩“力”が底を突き何も描けなくなる…やはり“デッサン力”と言うものの裏打ちが絶対必要だ…手塚治虫著“マンガ大学”やその他のマンガの描き方を教える本から情報を得ると、もう遮二無二“デッサン力”が欲しくなりました。そしてデッサン力が何たるかもよく知らず美術学校行きを強く決めていたのです。

 当時、美術専門学校は少なく、そこへ行く者は稀でした。私は武蔵野美術学校本科(油絵科)が最もデッサンを多く行い実力をつけてくれる最も自分に向いた学校だと…なぜか確信していました。でもむさ美に“マンガ科”はありませんでした。それどころか二年生への進級制作でややマンガタッチ物を提出したところ忽ち清水校長に呼ばれて叱られ、採点を担当した森教授からは落第・追試作品提出を命ぜられてしまった位、半漫画的でした。でもその頃には、そんなに叱られなくても既に私自身は、ワイドに広がった絵画全般の大世界に魅せられており範囲の決められた“子供マンガ”から心は離れていたのです。結局、美術学生時代を通じ子供マンガにかかわったのは、水木しげるさんのアシスタントをした時、彼氏の世話で単行本2冊『てる坊ひで坊』『すってんてるちゃん』(鈴木出版)を出した時だけでした。

 三年生になると卒業制作の準備に取り掛かりますが、卒業しても全く保証のない絵描き学校の心許無さの裏で、又、職業漫画家への思いが燃え上がってきました。と言っても今度は子供に向けたものではなく、いわゆる大人漫画でサーバー・スタインベルグ・フランソワ・ベンシャーン達が目標になっていました。1959年、三年生の春(20歳)に、数日間で描きあげた漫画100点を並べ東京銀座中央画廊で第一回個展を開きました。うぶな時代だったのか大勢の人が見にきてくれ、美術雑誌も無視はせずご丁寧に酷評まで掲載してくれました(美術手帳)。又、しかしその評に思いのほか傷ついてしまった私はその頃の作品殆どを焼却処分にするという“うぶ”さでした。

 卒業して東映動画スタジオに入り2年ほどアニメーションの仕事をしました。その間に東京渋谷と下北沢で漫画個展をやるなど、漫画家として独立する準備はいつもしていました。

 東映アニメスタジオ組合作りの騒動を機に会社を辞め、一気に漫画家への特訓(自己流)をはじめました。…脈絡にとらわれず片っ端からイメージしてそのイメージを画面にする事…この訓練で結果的に沢山の落書きが出来、何も考えずに屑として沢山捨て、何の気無しにかなり残っておりました。その頃のものから選んで“落書きの頃 1”としてまず三回展示する事にしました。この一年後あたりから雑誌等に載せる為の具体的な漫画練習に入り沢山の落書きが出来ました。それらは“落書きの頃 2”として何度かに分け展示する予定で、その次から実際に本などに掲載された“原稿・原画展”に移ろうと思います。

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