11月5日、芳の里委員長の一文 
11日、ルール・組み合わせ方式の発表



11月5日の記者会見、選手インタビュ-の後、
芳の里大会準備委員長から
日本プロレスが持っていたワールド大リーグ戦の大トロフィーを寄贈し、
オープン選手権の優勝者に送ると発表。
大会名に「ワールド大リーグ杯争奪」の名称が冠されることも合わせて発表された。

また同委員長はこの席で
「全日本プロレス オープン選手権大会、参加選手選考を終えて」
と題する一文を発表、猪木の不参加について「理解に苦しむ」との見解を示した。

(前略)
ところで誠に残念であったのは、新日本プロレスの参加が得られなかったことです。
新日本プロレスを代表するアントニオ・猪木君だけは、その日頃の言動からして、
何をおいても当大会に出場して普段対戦することのできない世界の強豪を前に
彼の真の実力を実証してくれるものと期待していたのですが、
当大会の趣向に賛同するといいながらも積極的に参加の意思表示もないまま、
早々に不参加表明をしたことは理解に苦しみます。

かねがね猪木君は、ジャイアント・馬場君への挑戦を繰り返し、
あらゆる条件を馬場君にまかせて、フリーの立場で戦うとまでいい切っていました。
馬場君が門戸を開放した本大会は、猪木君に与えられた唯一無二の舞台であったはずです。
この絶好の機会を自ら放棄した猪木君は、今後、自分本位の挑戦を繰り返す権利を
全て失ったものと解釈されても止むを得ないでしょう。
(後略)

「普段対戦することのできない世界の強豪」とは随分皮肉っぽい。
芳の里氏が猪木をなじってもしょうがないと思うのだが。
それはともかく猪木が狙っていたのはあくまで馬場の首だけ、と考えれば
この時点では大会に出場すれば必ず馬場戦が実現する、との確約は得られていないわけで
むしろ前述した危険な外国人メンバーと戦わなければならないリスクというものも生じる。
そう考えれば馬場のトラップにはまる危険を恐れた猪木が
イメージダウンを最小限にするために不参加を決めたという考えも納得できる。

11月11日、東京・六本木の事務局で記者会見、
ルール・組み合わせ方式についての発表があった。

組み合わせ方式については大会開催期間が全12戦と短く、
20人の参加選手が自分以外の19人とリーグ戦形式で対戦するとなると
19+18+17+16+15+14+13+12+11+10+9+8+7+6+5+4+3+2+1=190・・・。
公式戦試合数は実に190試合になる計算。
12日間で190戦の消化は不可能。
その結果、まずファン投票によって参加20選手のランキングを作成、
このランキングを元に、同時に公募される「夢の対決」カードを尊重する姿勢で
大会実行委員会が作成する、というもの。
ランキングは順位奇数の選手を東、順位偶数の選手を西というように
選手を大相撲の番付よろしく便宜的に東西に分け、
ファン投票カードを優先的にしながらもランキング上位同士の対決を実現させてゆくというもの。
芳の里委員長の「大相撲方式」と百田義浩委員の「ラグビーの対抗戦形式(註1)」をミックスさせた方式と報道された。

芳の里委員長はさらに大会の進行について以下のように説明した。
「大会の中盤になればこの選手は黒星続きで明らかに優勝戦線からはずれているという例が出てくるだろうし、
成績不振の者がはっきり現れるはずだ。
だから、その選手は自動的にオープン選手権のカードからはずし、成績のいい者同士を当たらせる。
それと同時に、ファン投票下位のカードもはぶく方法をとり、
あくまでも殺し文句どおり“夢のカード”の実現で推し進めてゆきたい。
得点法で優勝が決まるのだから、意外なレスラーが浮上したり、脱落することもありうるし、
毎試合が話題のカードになるだろう」

【試合方法】
1.30分1本勝負。
2.得点制。勝ち2点。負け0点。
引き分けは時間切れ引き分けのみ1点、他は0点。
3.最多得点者を優勝者とする。
同点者がいる場合は決定戦=30分1本勝負を行う。
4.試合ルールはPWFルールを適用する。

とくに新聞報道に断りはないがPWFルールは場外10カウント。

この後準備委員会はそのまま自動的に実行委員会に移行され、
実行委員長にはロード・ブレアースPWF会長が決定した。
大会名誉会長は小林与三次日本テレビ社長、
大会委員長はジャック・アドキッセンNWA会長(註2:F.V.エリック、来日せず)となった。
また優勝とは別に殊勲・敢闘・技能の三賞も制定され、最終戦で決定されることも発表された。


試合形式は主催者側が決めるのが当然だから、
いったん参加を表明しておいて試合形式が自分の意にそぐわないとして不参加を表明したのではマイナスイメージを背負うばかりだろう。
勿論猪木の話である。
先にも述べたが万が一猪木が参加を表明しても主催者側が決める試合方式によっては
猪木が望むカード(もっとはっきりいえば馬場戦)が実現しないこともありうる。
ここで素朴な疑問。オープン選手権はなぜ全12戦の比較的短期決戦のシリーズであるのに公式戦参加選手が20人もいたのだろうか。
普通なら日程に即した参加選手の人数決めがなされて然りではないか。
筆者の勝手な推測だが、猪木の参加が決まった場合は
おそらくオープン選手権はトーナメント方式か2ブロック制総当たり戦で行われたのではないか。
トーナメント方式なら公式戦試合数は20選手でも1回戦10試合+2回戦5試合、
5人残ったら変則トーナメントになって準決勝2試合で3人残って決勝が巴戦?になっても20試合。
公式戦がむしろ少ないぐらいだ。
2ブロック制総当たり戦(最終戦で両ブロックの最高得点者で決勝戦)なら
予選リーグが(9+8+7+6+5+4+3+2+1)×2=90試合、最終戦を別にした11戦では1日平均8.18試合。
前座なしで行けば何とか消化可能な数字ではないか。

そしてトーナメントにしろ2ブロック制にしろ馬場と猪木は別ブロックで、決勝戦でない限り当たらないという組み合わせになったのではないか。
サッカーなどの競技の大きな国際大会でのブロック分けで、
強豪同士がひしめいて勝ち上がりが困難な組み合わせになったブロックをよく「死の○組」と形容することがあるが
この大会が2ブロックで行われた場合、おそらく猪木が入ったブロックが「死のBブロック」になることは必至だろう。
それでも馬場戦実現に執念を燃やす猪木である。
オープン選手権から3年後の1978(昭和53)年11月、西ドイツのレスラー、ローラン・ボックの招聘により欧州遠征(註3)を実現させた猪木は
硬いマット、国境越えの過酷な移動、不慣れなラウンド制などの「究極のアウエー」の中
ボック、柔道王ルスカ、アマレスの神様デートリッヒ、アリと世界戦を戦ったヘビー級ボクサーのカール・ミルデンバーガー、
ジャック・デラサルテス、チャールズ・ベルハルストなど未知の選手を含む強豪と連日対戦、
満身創痍ながらも全20戦をノーフォール(唯一の1敗がボックによる判定負け)で乗り切った男である。
包囲網をかいくぐって執念の末猪木の決勝進出、もありえない話ではない。
だが仮に猪木が決勝戦に進出しても、もう一方のブロックから必ず馬場が勝ちあがってくるという保証はないのだから
(猪木の勝ち上がりが濃厚になった場合、馬場が自ら得点を落として勝ち上がらないという結果も可能性としてありうる)
最初から馬場戦が確約されていない以上、やはり猪木にはリスクの高い参加だったといえる。


註1:関東大学ラグビーの「対抗戦グループ」の、当時の試合形式からのアイディア。
関東大学ラグビーには別に「リーグ戦グループ」が存在する。
「対抗戦グループ」は早稲田、明治、慶応などの歴史の古い学校が所属し
戦前から行われている大学間の対抗戦を便宜的にグループに集結させたもの。
そのため大学によっては組み合わせがなく、試合数もまばらで統一感がなかった。
また大学選手権出場のための順位付けがあり同率の学校が発生した場合はマネジャー会議で順位が決定していた。
チームによってこのチームとはやるけどあのチームとはやらない、
試合数がこのチームとあのチームは合わないという状況が発生するのはまさにオープン選手権で採用されたとおりである。
日本ラグビー界の2000年前後の改編により「対抗戦グループ」も現在では完全総当りのリーグ戦形式で運営されている。

註2:来日していたら面白かっただろうなあ。第7戦福井大会、馬場対ブッチャー戦でブッチャーが殴りかかったのが
R.ブレアースじゃなくて鉄の爪エリックだったら・・・。ブッチャー罰金だけでは済みませんぞ。

註3:この欧州サーキットでは何の因果か一度は猪木対ヘーシンクのマッチメークが発表された
(結局ヘーシンクは来場せず猪木の相手は同じ柔道出身のW.ルスカが務めた)。
アントン同士、ですかね。


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