No.271
幻の対戦1.G.馬場vsA.ヘーシンク/大晦日決戦
「BABA-BOM-BA-YE」?


↑別冊ゴング昭和49年1月号より

昭和48年、柔道’64東京五輪無差別級金メダリストのアントン・ヘーシンクがプロレス入りを表明。
練習期間を経てジャイアント馬場の全日本プロレスのリングに上がることになった。
記者会見の席上、馬場は
「ヘーシンクをプロレスラーにしたらいいなという発想は、彼が東京オリンピックで優勝した時にすでに持っていた」
と語った。
しかし別のルートでもヘーシンクのプロレス転向のプランを持っていた人物がいた。
日本テレビのプランナー、後藤達彦氏の構想が古いゴングに記されている。
「実をいうと、ビジネスの上で関係の深い嵐田さん(嵐田三郎氏=ビートルズの招聘に成功したプロモーター)と話し合っているとき、
両方の口から“ヘーシンクをプロレスラーにしたらいいだろうなあ”というプランがとび出したわけです。
私はもしこれが実現したら、
民放各社にとって例年“魔の時間”といわれている
恒例の大みそかの
NHK紅白歌合戦に対抗してやろうと考えたんです。
その当時日本プロレスのスター選手だった
ジャイアント馬場とヘーシンクのプロレス・デスマッチ
これを紅白の裏番組としてぶつけよう―と真剣に考えたわけです」


馬場対ヘーシンクを紅白歌合戦の裏番組に、という構想があったということだ。
もし実現していれば猪木対ルスカより早く柔道五輪金メダリスト対日本人大物レスラーの対決が行われたということになったのだが。
また「紅白の対抗馬」というプランも現在の年末視聴率戦争の先駆けとして考えると非常に面白い。
昭和40〜50年代、民放で唯一といっていい紅白への対抗意識を見せていた日本テレビは
「コント55号」「ピンクレディー」など時の人気タレントの特番を単独でぶつけていたが、それほど健闘したという記録はない。
日本プロレス時代の馬場がヘーシンクと対戦ということなら曙-B.サップ以上の数字を獲得した、かどうか。期待は出来たと思う。

大晦日決戦は構想のみで日の目を見なかった。
馬場の異業種からの転向組の売り方は「融和」。
元大相撲横綱輪島の場合もそうだったが馬場が自ら対戦するのではなく、タッグを組んで試合をするというスタイル。

余談だがここでも猪木と馬場の対比というものが明確となる。
新日本プロレスが輪島を獲得していたらどうなっていたか、デビュー第1戦は猪木対輪島のシングルマッチになっていたのではないか。

ヘーシンクはデビュー当時こそタッグ戦でのサンマルチノとの対決など大きな話題を読んだが
両手を広げて相手を待つスタイルといい独自のプロレスのスタイルを獲得できず。
また見せ場となる舞台として用意されたプロレスラーとの柔道ジャケットマッチもさほど好評を得ず、
オランダの柔道王は次第に全日本プロレスのお荷物的存在に堕してゆく。

そんなヘーシンクに、再び馬場との対戦が小さな話題になったことがあった。
昭和50年12月の「オープン選手権」。11月5日の日本側出場選手発表の記者会見で馬場推薦としてヘーシンクの名が。
プロレスラーとしてのヘーシンクの実績に疑問符がつく中の歴史的大会への推薦に、馬場は
「資格を問うと確かにヘーシンクはいろいろあるが、彼の力がどこまでついたか、わたしはためしたい。
もし、私とぶつかるようなことにでもなれば、直接肌で感じることができますから・・・」
と語った。

しかし本大会で両者の公式戦対戦は発表されず、
ヘーシンクは12月11日、大会中に開催された「力道山13回忌追善特別大試合」で
東京五輪で金メダルを獲得した日本武道館に再び登場したのを最後に途中帰国。

ヘーシンクが久しぶりに来日したのが昭和53年新春ジャイアントシリーズの後半戦。
日本側に所属せずもっぱらシングルマッチで若手・中堅らに連戦連勝。

2月5日後楽園ではJ.鶴田のUN選手権に挑戦するカードが組まれた。
この試合、柔道着を着たヘーシンクとレスリングベースの鶴田の異種格闘技戦テイストたっぷりの試合でそれなりに面白かったが
若い鶴田がサイド・スープレックスなどでヘーシンクを圧倒。
最後はヘーシンクがロープ際で苦し紛れのスリーパー攻撃、レフェリーの制止を無視しての攻撃で反則負け。
これがヘーシンクの日本における最後のプロレス。
厄介者となったヘーシンクの介錯に馬場が指名したのが鶴田だったのか。
しかしここで馬場は自らの手でヘーシンクに引導を渡すという発想は生まれなかったか。

・・・そう考えていたら、対戦が実現していた。
タッグマッチながら実現していた記録を発見。

ということでこの「昭和53年新春ジャイアントシリーズ後半戦」のヘーシンクの試合結果をすべて掲載する。

▽1月23日 岩内町立中央小学校体育館
30分1本勝負
○A.ヘーシンク(片エビ固め、3:45)肥後宗典●

▽1月26日 袋井市体育館
30分1本勝負
○A.ヘーシンク(体固め、5:38)G小鹿●

▽1月27日 蒲郡市体育館
30分1本勝負
○A.ヘーシンク(体固め、6:58)大熊元司●

▽1月28日 豊明社会福祉会館
30分1本勝負
○A.ヘーシンク(体固め、6:09)肥後宗典●

▽1月29日 美濃市体育館
30分1本勝負
○A.ヘーシンク、K.ドク(体固め、14:03)G馬場、R羽田●


▽2月1日 秩父市民体育館
30分1本勝負
●J.ロッズ、A.ヘーシンク(体固め、23:28)R羽田、J鶴田○

▽2月2日 矢板市体育館
30分1本勝負
○A.ヘーシンク、K.ドク(体固め、20:10)ザ・デストロイヤー、R羽田●

▽2月3日 栃木・烏山町民体育館
30分1本勝負
○A.ヘーシンク(袈裟固め、5:12)肥後宗典●

▽2月4日 館林市民体育館
30分1本勝負
○A.ヘーシンク(袈裟固め、10:20)R羽田●

▽2月5日 東京・後楽園ホール
UN選手権60分1本勝負
●A.ヘーシンク(反則、17:15)J鶴田○
*王者鶴田が5度目の防衛に成功。


↑別冊ゴング昭和53年3月号より


1月29日、観衆1500人の美濃市体育館で
タッグマッチながら「打倒紅白の秘密兵器」構想まであった馬場対ヘーシンクが注目されることもなくひっそりと実現していた。
やはり対戦カードには旬がある、時機を逸すれば全く魅力のないものになってしまう、そういうことを痛感した次第。

(2006.0521)

*ヘーシンクの試合結果はゴング昭和56年3月号による。
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